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[第68話]200年分の年貢割付状が語り出す村の歴史

 

 「年貢割付状」は江戸時代の納税通知書です。当時の税は村(現在の大字に相当)単位で納める仕組みになっていました。納税先である幕府や藩が毎年各村へ通知し、各村は通知された年貢割付状に基づいて年貢(税)を納めました。


 年貢は検地帳に記された石高に対して(めん)(税率)が決められ、その額が年貢割付状として通知されました。当館には三王淵村(現燕市三王淵)の200年分の年貢割付状が保存されています。年貢割付状が残っている例は多いですが、100年単位で残っている例は限られています。


 最初の年貢割付状は寛永15年(1638)で、村高を見ると寛永15年は100石で税率は3割となっています(注1)。この年から200年分の年貢割付状を年を追って見ていくことができます。


 最後の年は慶応3年(1867)での村高は517石に増加しています。これは新田開発によるもので、年を追いながら村高の推移をつかむことができます。これに対して免(税率)は大きく変わりませんでした。

200年分もそろっていると、年貢割付状からはこのような数値的データ、統計だけでなく、記載様式が変化していく状況を見ることができ、そこからは支配の関係や支配者の年貢増収の意識の変化などを読み取ることもできます。


 三王淵村は江戸初期には幕府領で役人は八王子(現東京都八王子市)や江戸に居ました。年貢徴収は越後での年貢をまとめる役として地元の手代があたっていました。この時の年貢割付状の内容は記載事項も少なく、書付の長さも短くなっています。


 寛永15年の文書においては、発給する支配者の名前が、宛名の庄屋・百姓中より並びが下がっています。庄屋の中には、帰農武士や土豪(注2)など有力者がいたためと考えられます。しかし次第に支配者の名前と印が大きくなり、庄屋以下の名前は極端に小さくなり、並びの位置も下がり、支配者と庄屋以下の間も開きます。これは時の経過とともに、出自ではなく身分秩序を重んじる価値観への転換と定着によるところが大きいと思われます。


 慶安2年(1649)から村上藩領に変わり年貢割付状の記載様式などに変化がみられます。石高と免が本田・新田別に記載されるようになります。支配者の名前の文字が大きくなって書付が長くなり紙質も良くなります。年貢をまとめる役も手代から下級武士、中級武士と変わっていきます。慶応3年の文書を見ると、年貢割付状を発給する支配者の名前(代官から奉行、幕末は家老衆)と、これを受け取る庄屋・百姓中の名前が記された位置と大きさも寛永15年の文書とは大きく変化しています。


 決してめずらしくない年貢割付状も、200年という年月のものがまとまって保存されることで、村の年貢、新田開発による石高の推移にとどまらず、支配の関係や意識の移りかわりを私たちに雄弁に語ってくれる存在なのです。


(注1) 石高とは検地帳に定められた面積・等級により収穫量を示したもの。村高は村の石高の総計。

(注2)  庄屋は村役人の長で、年貢納入の決算などから村の管理・監督全般をおこなう役目を担っている人。百姓中は検地帳に登録され年貢を納める義務を負った人々。帰農武士は武士の身分を辞し農事に従事した人。土豪はその土地で勢力のある一族。



【越後国蒲原郡三王渕三右衛門新田村寅御成ヶ可納割付之事】寛永15年(1638) 縦30.5センチ 横28センチ (請求記号E1012-1-1)


【卯歳御年貢米割付之事】慶応3年(1867) 縦33センチ 横175センチ (請求記号E1012-1-214)