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[第26話]京都に散った勤王志士 本間精一郎

 

【本間精一郎斬奸状写】(請求記号E9103-1317-3)


 本間精一郎ほんませいいちろうは、天保5年(1834)に寺泊(現長岡市)で生まれました。長身で目立つほど体が大きく、性格は大らかで度量も大きかったと言われています。19歳の時に江戸へ出て、幕臣川路聖謨かわじとしあきらに仕えましたが、条約勅許の問題や安政の大獄などを経て、次第に尊王攘夷を唱えるようになりました。そして、薩摩藩の島津久光上京の時には、真木和泉や清河八郎らとともに倒幕計画を立てたり、和宮降嫁に対しては関係公卿の排斥運動を行うなど、幕末の重要な出来事にも積極的に関わり、公家や薩長諸藩の志士たちとも盛んに交流していたようです。
 しかし、公武合体と尊王攘夷の対立の中で、文久2年(1862)に暗殺されてしまいます(一説によると、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛らによって暗殺されたと言われています)。上の史料はその時の斬奸状ざんかんじょう(悪者を暗殺する趣意を記した文書)ですが、「衆人を惑わし」「奸謀かんぼうたくらみ」など、本間精一郎の暗殺に至った理由が述べられています。
 本間精一郎が斬奸状に記されたような悪者であったかどうかは定かではありませんが、過激な論説で誤解を招くようなこともあったと言われています。また、島津久光により多くの尊王攘夷派の志士が鎮圧された寺田屋事件を機にその活動も封じられ、酒色におぼれるようになったようです。
 しかし、明治時代に入ると、新政府からは官位が贈られ、新潟県が作成した「勤王者調書類」では、皇室国家に対して忠義があったものとしてその事績などについて紹介されています。現在、京都の木屋町通の民家前には、本間精一郎遭難の地の石碑がひっそりとたたずみ、彼が幕末の京都で活躍していたことを今に伝えています。



【勤王者調書類】(請求記号H92総人4)

【本間精一郎遭難の地】