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[第90話]日露戦争にかけた山際シキの願い

 明治37年(1904)2月にはじまった日露戦争は、大国ロシアに対して1年半に及ぶ大規模な近代戦争でした。日本からの兵士動員数約100万人、戦死・戦病死者11万人余を数えました。新潟県からは、新発田の歩兵第16連隊などが出兵しています。

 この戦争に、西蒲原郡木場村(現新潟市西区)から山際和雄が明治37年2月9日に出征しました。山際家は江戸時代には庄屋をつとめた旧家で、和雄の父七司(しちじ)は自由民権運動家として著名でした。和雄は七司とレイの二男として、明治10年(1877)に誕生します。5歳上に長男敬雄(よしお)、3歳下に妹シキがいました。敬雄は一家を代表し、シキは母の代わりに家を守り、戦場の和雄を鼓舞しました。

 第1軍第2師団歩兵第16連隊に配属された和雄は、10月10日から始まる沙河(さか)会戦(注)に参戦しました。和雄がまとめた戦闘記によると、占領した山の朝方の光景は死傷者のうめき声や隊名を叫ぶ兵士の声が満ち溢れ聞くに堪えられない状況でした。今まで語り合ってきた戦友を失い、和雄は「戦闘は実に惨(みじ)めの極(きわ)み」と本音を漏らしています。

郷里のシキは、敬雄とともに激励の手紙を和雄に送り続けます。戦闘は、9月に入ると本格化します。9月8日、総司令官に下された明治天皇の勅語に感激したシキは、兄の奮励心喚起とともにみずから国のために尽くす決意を述べます。翌明治38年には戦争終結を望む講和論が広まると、シキはこれを批判し、戦争の長期化を予想しました。  
 なぜ、25歳のうら若き娘シキがこれほど強硬になれたのでしょうか。一般的には、日清戦争後のロシアを始めとする三国干渉に対する国民の反発がありました。三国干渉で、日本は遼東(りょうとう)半島割譲を断念、その後10年間「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」(復讐するために苦労に堪える)の標語のもと、ロシアに対する敵意を高めました。

一方、山際家内部にも日露戦争にかける想いがありました。日露戦争開戦時、既に父七司は42歳で病没しており、七司没後の山際家は、経済的な理由などで衰退します。和雄の出征は、傾きかけた山際家の家名を立て直す絶好の機会と思われたのです。シキは、和雄の戦場での活躍が先祖を喜ばし、七司が存命であればその喜びは計り知れないと考えました。そしてシキは、この戦争に和雄が最後まで戦い抜くことを望みます。戦争から無事に帰国した和雄は、明治43年に自分宛の家族や友人の書状を「日露戦役ニ於ケル慰問書綴」にまとめました。その中で和雄は、「真心のこもった慰問で気持ちが動かされ、感謝に堪えません」と記しています。和雄にとっても、日露戦争は山際家を見つめる大きな出来事だったのです。

(注)沙河会戦は、遼陽(りょうよう)会戦・奉天(ほうてん)会戦と並ぶ三大会戦の一つ。明治37年10月10日から20日の間に、日本軍2万人余り・ロシア軍4万人余りの死傷者を出した。

【山際シキ書状 山際和雄宛 (明治3792日付)】(整理中)