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[第54話]御存じですか? 湯治の作法 ~江戸時代の『竹山日記』から~

 

 江戸時代も文化文政年間(1804~29)以降、庶民の旅は急増します。その多くは寺社参詣を名目とした物見遊山が中心です。湯治とうじもそのような庶民の楽しみの一つです。湯治は病気の療治を目的としているので、物見遊山とは別の意味で庶民の娯楽の一つでもありました。
 貝原益軒かいばらえっけん(江戸時代前期の儒学者・本草学者・庶民教育家)など学者や医師は、早くから湯治の効用や入湯方法について、経験則を元に書物も刊行しています。1回の湯治を一巡り7日間とし、三巡して21日間の湯治が基本であるといいます。一巡り三臘さんろうの二十一浴です。また、湯治中禁忌もいくつか挙げています。たとえば、大食・大酒などは大毒であるから慎むべし。入湯にも仕方があります。到着の初日は、一回の入湯がよいといいます。3、4日後から多く入ってよい。二巡目からは自由です。入り方はというと、足を湯に入れ、小さな柄杓ひしゃくで頭から湯をかけて、徐々に身体全体を慣らすべきといいます。大汗をかくほど湯壷に浸かってはならないともいいます。その理由はまことしやかです。
 湯治の紀行文は、いろいろな人が書き、かなり伝わっています。しかし、実際の湯治の様子を知るつまびらかな史料というものは少ないです。『竹山日記』の栃尾俣温泉(魚沼市)での日記は、21日間の当時の実態と湯治場での生活の様子を知らせてくれる貴重な史料です。


 安政3年(1856)8月1日(新暦8月30日)、竹山亨は、妹杖、同居人幾恵、知人の妻の3人を同道して栃尾俣温泉へ湯治に行きます。往路の道中が興味深いです。自宅前の信濃川舟着場を日暮れに出立します。目覚めるとちょうど朝日が出るころです。もう槇下まきした村(長岡市)まで来ていました。一晩中、舟をいてもらっていたことになります。当時、川をさかのぼる舟はどこでも曳いて遡上そじょうしたものです。女連れですから茶屋で休む回数が目立ちます。栃尾俣へ直行しないで、遠回りして浦佐の毘沙門天を参詣しています。
 亨は自身が医師でもありますが、彼の入湯回数は、書物の指南どおりです(表参照)。初日の入湯は1回です。湯当たりしたのか風邪を引いて2日間入湯しません。二巡目に入ると、入湯回数が増えます。1日に5~7回となります。三巡目の後半は再び減っていきます。入湯時刻も克明です。のべつ1日中湯に入っている訳ではなく、ほぼ決まった時刻に入っています。
 栃尾俣温泉は、当時すでに知られた湯治場です。地元の魚沼郡内の村々からの湯治客が最も多いですが、広い範囲から栃尾俣温泉へ来ます。柏崎・出雲崎・三条・加茂などやその近在の村人です。遠くは西蒲原郡の五ヶ浜ごかはま村(旧巻町)や田子倉たごくら村(福島県)からの湯治客もいます。


 湯治客の範囲が分かるのは、亨が交流した人々ことを日記に詳しく書いているからです。日記を読むかぎり、亨も最初の2日間は静かにしていたようです。彼は元来が人なつっこい性格です。三条の町を訪れるといつも、「ちょっと、ちょっと」と言いながら、三条町のあちこちの家を訪れることが習慣のようになっています。
 湯治客はどこかに皆病気を抱えている人なのだから、遠慮しないで昔からの知り合いのように打ち解けましょう、というのが湯治場の過ごし方の作法であるといいます。3日目から「地」を出した亨はたくさんの人と交流します。菓子など食べ物の交換をします。亨はもっぱら貰う方です。その分、医師として重宝されています。湯治場は自炊が基本ですから、各自(家庭)の料理も交換しています。お返しは付きもののようです。互いに部屋を訪れて世間話にも花を咲かせるようです。村の神社の行事にも連れだっていきます。隣の大湯温泉にも一緒に行きます。
 湯治の実態は、伝わりにくいですが、『竹山日記』は格好の史料です。他のできごとも一緒に読んでいくと尚のこと当時の生活実態が伝わってきます。





「安政3年栃尾俣温泉湯治」 『竹山日記』より 【請求記号 CKB‐クタ】