閉じる

> 新潟県立文書館> 越後佐渡ヒストリア> [第45話]越後のイケメン、上洛す 

新潟県立文書館

〒950-8602 新潟県新潟市中央区女池南3丁目1番2号

TEL 025-284-6011(代表)/ FAX 025-284-8737

E-MAIL archives@mail.pref-lib.niigata.niigata.jp

CSS

大文字んCSS

検索

[第45話]越後のイケメン、上洛す
~その姿を御上洛行烈図と老中水野家奥女中の手紙から追う~

 

 榊原政敬さかきばらまさたかは越後国高田藩第14代目の藩主です。文久元年(1861)10月に家督を相続しますが、この時は数えの20歳という若さでした。


 文久3年(1863)2月13日、第14代将軍徳川家茂が上洛じょうらくのため、江戸を出発します。当時国内では、幕府がアメリカなど各国に貿易を許可したことに対し、朝廷は開国に反対して攘夷を求めていました。上洛の目的は朝廷の求めに応じたものでした。


 家茂は、一橋刑部ぎょうぶ(のちの15代将軍慶喜)以下のお供で500余名の行列を従え、3月4日に京都に入りました。行列の先手が榊原政敬です。榊原家は代々将軍の先手を務めることが慣例になっていました。「御上洛行烈図」はこの時の姿を描いたものです。
 将軍の上洛は3代将軍家光以来、約230年ぶりのことで人々の強い関心を集めました。「御上洛行烈図」には青年政敬の馬上の束帯そくたい姿が凛々しく見てとれます。
 上洛した将軍家茂の一行は孝明天皇の加茂社行幸ぎょうこう供奉ぐぶなどを務め、6月に江戸へ帰りました。


 その後、政敬は同3年12月に再び将軍家茂の上洛にお供をしています。そして、翌年の元治元年(1864)3月7日、朝廷より在京の諸大名に武家の礼服に当たる衣冠いかん着用で参内さんだいすることが命じられます。この時の参内の姿を見ていた老中水野忠精ただきよの奥女中かもりが記した手紙が残されています。かもりは政敬が参内する姿を次のように記しています。
 「~紀州様(和歌山藩主)などもよろしからず、御大名三十人ばかりの内、御若き御方榊原様(高田藩主)、かもん様(彦根藩主)など御うつくしく御座候へ共、ほかの殿様ハどれも一人みられる御方ハ是なく~」
 これを読むと政敬と掃部かもん井伊直憲いいなおのり)は衣冠姿が良く似合う好青年であったことがわかります。
 衣冠の色は官位によって決められており、政敬はこの時、官位が従五位下じゅごいのげだったので、かんむりをかぶり、浅緋色あさひいろほう(上着)・浅黄色あさぎいろ奴袴さしぬき(袴)を着用し、腰には糸巻太刀、右手に扇子を持っていたと推察されます。京の人々など大勢の見物人もおそらく若き高田藩主政敬の姿をたたえたと思われます。


 2度の上洛と行幸の供奉、そして、御所に参内する若き政敬の姿は多くの女性の心をひきつけたことでしょう。現代ならば“イケメン殿様”ですね。
 明治維新後の礼服姿の写真は政敬の端正な姿を現在に伝えています。馬上の衣冠束帯姿、維新後の洋装姿、あなたはどちらがお好みでしょうか?



【御上洛行烈図(請求記号E9903-182)】


【明治維新後の榊原政敬(『公益財団法人旧高田藩和親会』より)】