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新潟県立文書館

〒950-8602 新潟県新潟市中央区女池南3丁目1番2号

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文書館のお知らせ
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2017/11/13new

障害者の方を対象とした非常勤(事務補助)職員募集のお知らせです

| by 文書館
 新潟県立文書館に勤務する非常勤(事務補助)職員を募集します。

1 募集期間 平成29年11月13日(月)~12月1日(金)
2 考  査  日  平成29年12月8日(金)
3 採用人数 1人
4 勤務場所 新潟県立文書館(新潟市中央区女池南3-1-2)
5 業務内容 行政事務の補助(経理事務・文書事務の補助、エクセルやワードを使用したデータ入力
       作業、電話応対など)
6 勤務予定期間 平成30年1月4日(木)~平成30年3月31日(土)
         ※その後の契約延長もあり得る

詳しくはこちらをご覧ください。   非常勤事務補助詳細(H29.11).pdf

09:00 | 平成29年度
2017/11/08

第4回教養講座の様子を紹介します

| by 文書館
 新潟県立文書館では、平成29年9月27日(水)に、第4回教養講座「災害史から読み解く越佐の気候-異常気象に翻弄された江戸時代-」を開催しました。

 

 講座の内容を概略で紹介します。

江戸時代は天下泰平と言われ、平穏な時代が続いていたように思われがちですが、全国的に見ると地震や火山噴火、洪水などの自然災害に度重なって見舞われており、経済や社会的に動揺をもたらすこともありました。災害史などの記録から、当時の越後・佐渡の気候を振り返ります。

一番多かった自然災害は風水害です。新発田藩や長岡藩の記録を見ると、ほぼ4年に1度の頻度で発生しており、特に18世紀(1700年代)に多く見られます。干害は山間地や佐渡で度々発生、風害も台風に起因するものと考えられる記録が越後・佐渡で多く見られます。江戸時代には、ほぼ50年周期で飢饉が起きていたが、飢饉は水害だけでなく虫害や冷害などの気象災害の継続的・複合的な発生により生じており、特に越後では、冷夏のほか大雪が影響していることが多かったようです。

こうした災害をもたらすような異常気象が江戸時代に頻発したのは、太陽活動の低下や大規模な火山活動などにより、「小氷期」と呼ばれる世界的に寒冷な時代と重なっていたことが原因と考えられ、日本では寒冷化に2つのピークがありました。

江戸時代の越後・佐渡の気候を通してみると、宝暦期(1750年代)~天明期(1780年代)は30年以上の長期に渡り気象災害が連続する不順な時代であり、天保期(1830年代)以降も幕末まで気象災害が多発していました。一方、寛政期(1790年代)~文政期(1820年代)は自然災害が比較的少ない平穏期であったことが、酒造統制資料などからも確認できます。

◎参加者の感想の一部を紹介します。

・災害がいかに多いか驚かされます。日本は昔から災害が多かった事をもっと認識すべきだと再確認しました。ありがとうございました。
・今回初めて受講させて貰いました。テーマが江戸時代における翻弄された気象のメカニズム等を、時系列網羅された年表を見て、当時の人々の(特に農民)大変さをうかがい知ることが出来ました。
・気候・災害が歴史に与える影響は見落としがちですが、広く視野を広げる大切さを思いました。


  
                           ≪講座の様子

 


   【救荒孫之杖(E9903--126)】


14:00
2017/11/03

越後佐渡ヒストリア第79話を掲載しました

| by 文書館
 今回掲載する越後佐渡ヒストリア第79話は「新潟県尋常師範学校生徒は果報の息子なり‐明治の修学旅行-」です。
 新潟県尋常師範学校が実施した明治21年の修学旅行は、今の修学旅行とは違い、18日間に及ぶ長期にわたるものでした。小学校の教員を目指す彼らがどのような旅行を経験したのか、生徒が書いた『修学旅行日誌』をもとに跡を追ってみました。ぜひ、ご覧ください。



越後佐渡ヒストリア第79話はこちらをご覧ください
10:00
2017/11/01

新発田市立猿橋中学校の生徒4名が職場見学を行いました

| by 文書館
 平成29年10月25日(水)、新発田市立猿橋中学校の1年生4名が職場見学を行いました。

 生徒のみなさんは、当館の業務や施設に関して熱心に質問を行い、メモをとりながら耳を傾けていました。また第4回企画展「手紙から読み解く明治時代の女性」を見学しました。
 施設見学では、日ごろ入れない書庫を見学し、所蔵資料を直に触れたりしました。

 
   《館内の説明などを聞いている様子》
  
    《書庫内で説明を聞いている様子》
   
     
  《絵図で現在の新発田市を探している様子》
  
     《絵図の説明を受けている様子》


09:00
2017/10/31

閲覧室での一般閲覧休止のお知らせ

| by 文書館

 いつも御利用いただきありがとうございます。

 さて、県立文書館では、平成29年10月31日(火)~11月12日(日)まで、特別企画展「地図にみるふるさとのすがたー描かれた越後・佐渡ー」のため、閲覧室での一般閲覧を休止します。

 御迷惑をおかけしますが、御理解と御協力をお願いします。

09:55
2017/10/19

越後佐渡ヒストリア第78話を掲載しました

| by 文書館
 今回掲載します越後佐渡ヒストリア第78話は「いったいいくつあるんだろう?-越後七不思議のふしぎ-」です。
 越後七不思議とは、古くから越後国に伝わる珍しい事柄の総称です。しかし、七不思議と言いながら、必ずしも7つとは限りませんでした。なぜそのようなことになったのでしょうか。ぜひ、ご覧ください。



越後佐渡ヒストリア第78話はこちらをご覧ください

16:40
2017/10/04

第3回教養講座の様子を紹介します

| by 文書館

 新潟県立文書館では、平成29年9月6日(水)に、第3回歴史講座「越後の古代寺院を探る -「乙宝寺」と「国上寺」を中心に-」を開催しました。

 

 講座の内容を概略で紹介します。

越後で最も古いとされている「乙宝寺」(胎内市)と「国上寺」(燕市)。その創建やその後の歴史についてはあいまい部分が少なくありません。
 「乙宝寺」の創建は、境内にある六角堂の
(とう)(しん)()(塔の中心柱の礎石)から奈良時代初期には建てられたことがわかります。この時期は越前国足羽(あすは)郷(福井県福井市)の人々が移住して来たことにより足羽郷と呼ばれ、塔心礎の様式が足羽郷にあった寺院のものと同じであることから、その有力者が関わったと考えられます。

 「乙宝寺」は創建当初、「乙寺(きのとでら)」と呼ばれていました。鎌倉時代に上越市にある「(さる)供養寺(くようじ)」と「乙宝寺」(胎内市の「乙宝寺」とは別)が幕府軍に攻められ滅びました。そして、両寺との関係のある者が「乙寺」に逃げ込み、鎌倉幕府が滅亡した後、「乙寺」は「乙宝寺」と呼称することになりました。

 「国上寺」の創建は、古くから「行者(ぎょうじゃ)(仏道と俢験道を修めた人など)」がしたとされています。奈良時代、山は俗界と離れた神聖なところとされていました。寺院は国上山の中腹にあ、平野部にある村落に建立された寺院とは異なっています。そこから湧き出清らかな水は仏への毎日の供養に欠かせないものとなりました。

 そのためか、寺名も平安時代の説話集の中では「越後国古志郡国上山」と紹介されて、初め「国上寺」は「()上山(がみやま)」と呼ばれていました。その後、鎌倉時代までには寺院としての体裁を整え、現在の「国上寺」となっていったようです。
 数少ない資料をもとに探っていくと、仏教寺院の存在がその地域の歴史に少なからず影響を与えていたことが見えてきます。


◎参加者の感想の一部を紹介します。

・乙宝寺と国上寺は有名なので楽しみにしてきました。少ない資料から推察していくおもしろみがありました。

・大変興味深く勉強になった。子供の頃、家族と乙宝寺の話をしたことがあり、今回の講座は関心がありました。                      

・謎が多い国上寺・乙宝寺に関して歴史的な概略が少し理解できました。

  
                           ≪講座の様子

 
新潟県寺院明細帳(乙宝寺)(39-2-204)】【新潟県寺院明細帳(国上寺)(44-2-12)】


15:10
2017/09/14

古文書保存・整理の手引き【改訂版】について

| by 文書館
 新潟県歴史資料保存活用連絡協議会では、古文書保存・整理の手引き【改訂版】を作成いたしました。
 古文書保存・整理の手引き【改訂版】は、古文書保存・整理・活用に携わる行政職員またはそれに準ずる方に限りお譲りしています。希望される方は、ホーム画面上リンク集内に詳細がございますので、そちらをご覧ください。

 当館は新潟県歴史資料保存活用連絡協議会の事務局です。
15:00
2017/08/31

第2回教養講座の様子を紹介します

| by 文書館
 新潟県立文書館では、平成29年8月9日(水)に、第2回歴史講座「新潟のオイルラッシュ-近代石油産業の成立-」を開催しました。

講座の内容を概略で紹介します。

  
石油について掘り下げてみると、『日本書紀』には天智7年(668)に「越の国より燃ゆる土(アスファルト)、燃ゆる水(石油)が献上された」と記されています。また、江戸時代には、『北越奇談』の中でさまざまな越後の不思議のひとつとして、草水(くそうず)油(臭い水=石油)が紹介されています。越後各地で草水油が採取されましたが、灯火の油として用いても臭いがあり、黒いすすが出るため、あまり好まれませんでした。

明治期に入り、県内各地で石油採掘ブームが起こりました。このブームが起こった背景には、個人の土地所有が認められたことやランプの灯油需要が高まったことがあげられます。

このブームの中で、三島郡尼瀬油田では明治24(1891)に機械掘りによる出油に成功し、県内では石油会社の設立が相次ぎました。中でも日本石油会社や宝田石油会社は資本金1000万円の大会社へと発展していきました。

石油開発は、製油業だけでなく、鉄鋼業や鉄道など県内の重工業を発展させました。特に、鉄道の敷設は石油を運ぶという新たな目的のために県内で発展していきました。

さらに、明治40年代、飛行機や自動車、改良漁船の需要が増え、灯油より軽油や重油、機械油の需要が増加し、ますます石油の需要が増えていきました。そのため、県内のオイルラッシュは加速していきました。

◎参加者の感想の一部を紹介します。

・新潟県の産業の発展に石油が深いことを知りました。胎内市の石油がフツフツと沸いてくる様子を見てみたいと思いました。業務内容をはがきで報告するなど余談も面白かったです。
・非常に楽しみにしていた講座で、身近な地域も聞かれ、面白かったです。
・新潟の石油生産の歴史をわかりやすく説明していただけました。


  

       《講座の様子》                    【刈羽郡柏崎町茂木製油所業務日報(E0307-1 )】



16:10 | 平成29年度
2017/08/29

越後佐渡ヒストリア第77話を掲載しました

| by 文書館
  今回掲載します越後佐渡ヒストリア第77話は「初志貫徹!貫き通した上越線への想い!」です。
 昭和6年 (1931)91日、上越線は全通しました。その結果、その後の魚沼地方や新潟県に多くの恩恵を与える存在となっています。上越線開通にかける熱き想いを、ぜひ、ご覧ください。

越後佐渡ヒストリア第77話はこちらをご覧ください

16:10 | 平成29年度
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