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[第61話]新潟地震で姿を消した2本の橋脚
~その行方と昭和大橋落下の謎にせまる~

 

 昭和39年(1964)6月16日、新潟県粟島南方沖40kmを震源として、新潟県を中心に大きな被害をもたらした新潟地震。特に新潟市における被害が大きく、昭和大橋の落下、高層鉄筋建造物の倒壊、石油タンクの爆発・炎上などは新潟地震の象徴的な被害として報道され全国の注目を集めました。昭和大橋は前年の国体開催に合わせて架け替えられたばかりで、当時の最新技術の粋を集め、鉄鋼とコンクリートで造られていたため「永久橋」とも呼ばれていました。そんな昭和大橋が落下したという出来事は、人々の間に大きな驚きと戸惑いを与えたようです。

 昭和39年作成の本県行政文書の中に、同年7月3日付の昭和大橋の落下に関する新聞記事が一緒に織り込まれており、「姿を消した二橋脚 解明のカギ、倒壊か沈下か」といった見出しが目を引きます。専門家の見解や県担当課のコメントなどが載っており、当時の県当局も大いに関心があったようです。この日の新聞報道をまとめると、「昭和大橋の特徴は、長さ25mの鋼管杭を橋脚(ピーア)に使っており、普通はこの鋼管の中にコンクリートを詰めるところ、代わりに河床から下の部分に砂が詰められていた。手を抜いたというわけではなく、計算上コンクリートでなくてもよかったので、砂で済ませていた。昭和大橋が落下した原因は、計算上の安全に頼り、下部構造が弱かったことや美観優先で橋脚の頭の幅(注1)を広げなかったことなどが考えられる」となります。

 それでは、落下のカギをにぎる二本の橋脚はどこに消えたのでしょうか?

 県では、一回、潜水夫を水中に潜らせて調べましたが分かりませんでした。そこで当時、この二本の橋脚をめぐって「沈下説」と「倒壊説」という考え方が出てきました。沈下説は、5Pと6Pの下に大きな亀裂が起こり、橋脚全体がすっぽり河床に潜り込んだというもの。倒壊説は、二つの橋脚に特に強い衝撃が加わり、折れ曲がって川底に沈んでいるというものです。昭和41年1月発行の建設省土木研究所の『新潟震災調査委員会(橋梁部門資料)』(注2)によると、橋の復旧工事に伴って落下した橋桁を取り除いたときに、二本の橋脚とも完全に沈下した橋桁(B桁)の両隣の橋桁(A桁とC桁)の下に巻き込まれた形で折れ曲がった状態であった、と言っています。また、被災時に昭和大橋付近の住民が、ゴロゴロという雷のような大きな音がしたと証言しており(注3)、橋桁同士を衝突させた水平力の影響などが落下の原因ではないかとしています。ともかく、結果的には「倒壊説」に軍配が上がったということでしょうか。

 県では、昭和39年12月に『新潟地震災害復興計画』を策定します。信濃川によって東西に分断されている新潟市は、昭和大橋の落下、万代橋、八千代橋の破損によって、被災後に東西新潟の交通が全く混乱状態となりました。その原因が、わずか三橋によって連絡せざるを得ない実状にあったことから、昭和大橋上流及び万代橋下流に、それぞれ新しい橋梁の建設が計画されます。また、新潟地震は昭和大橋の落下や高層建築物の沈下、倒壊、傾斜などの被害を生じさせた「液状化現象」(注4)への学問的な究明や問題提起のきっかけとなりました。

今年で51年目を迎えた新潟地震。昭和大橋の落下をはじめとした地震の教訓は、その後の新潟市や他の都市への防災対策や復興対策に活かされています。


(注1) 橋脚が桁を支える部分

(注2) 請求記号 H10土道管28

(注3) 橋桁同士の衝突音が橋の下の空間で共鳴し発生したと言われている。

(注4) 当時は行政やマスコミは「流砂現象」という言葉を使用。



「昭和39年6月17日 新潟日報より」


「行政文書におり込まれていた新聞記事」(請求記号 H10土道管24)


「昭和大橋資料」(請求記号 H10土道管24)