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第96話 宗門改めと宗門人別改帳 ─戸籍簿として視る宗門人別帳─

 江戸時代、すべての人がいずれかの寺院の檀那(檀家)となること注1が定められ、毎年その宗旨を明らかにする宗門人別改帳注2が作成されていました。それは翻って、日本のすべての人々は“キリシタンではない”ということを証明するということです。

豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以来、日本でのキリスト教の布教は禁止され、徳川幕府もキリシタン禁止政策を引き継ぎました。その禁止政策ですが、寛永14年(1637)に起こった島原の乱(島原・天草一揆)を契機に摘発と弾圧がより一層強化されるようになります。寛永17年(1640)、幕府は宗門改役を設置し幕領でのキリシタン摘発に力を入れるようになります。そして寛文4年(1664)、幕府は諸藩にも宗門改め役人の設置と宗門改めを毎年実施するよう、また翌5年(1665)には宗門改めの帳面を作成するように命じ、寛文11年(1671)からは毎年作り直すことが定められました。この帳面は1冊を領主へ提出し、もう1冊は村の控として残されました。

写真①は寛文12年(1672)に上越市吉川区で作成された、『下美守(ひだもり)吉利支丹(きりしたん)宗旨御改帳』です。宗門改め制度が始まったばかりの時期であるからか、前書きには「一 毎度吉利支丹之宗旨御法(ごはっと)之趣、御改之御請判(さし)(あげ)申通り、村中男女老若召仕ニ至迄耶蘇(やそ)宗門壱人も御座なく候(後略)」と、村中の者がキリシタンではないこと、キリシタンの者を隠したりもしていないこと、また、キリシタンから改宗した者もいないことなどが書かれています。

写真②を見てわかる通り、1軒ごとに家族の名前3と戸主との関係、年齢、そして檀那寺が書かれています。後には他村への縁付きや死亡、出稼ぎや奉公などによる出入増減も記されるようになり、現代で言う戸籍簿のような役割を果たすようになりました。このように、はじめはキリシタン禁止政策の一つとして始まった宗門改めですが、次第に人別改めと併せて戸籍簿としての役割が強くなり、幕府・諸藩の戸口掌握に役立てられるようになりました。

 戸籍簿として見た場合の宗門人別改帳からは、意外と多くの事柄を発見することができます。縁付きによって他村へ嫁いだ女性がどの程度いたのか、またその範囲、もしくは飢饉や天災のあと、出稼ぎや家出などで村から出て行った人が増えていないかどうかなどです。

写真②の、梶村伝兵衛4の家を見てみましょう。戸主伝兵衛とその女房、娘、隠居した両親、妹、弟のほかに、下女、下人、名子5とその家族まで含めた総勢22名の名前と年齢が書かれています。面白いことに、梶村はこの時、家数が寺を含め12軒とあるのですが、6つの家集団しか書かれていません。おそらく、戸主の兄弟・甥家族や名子の一部などは家を別にしていたと考えられます。しかし、それらは一軒前として認められておらず、広い意味で伝兵衛のような“家長”を中心とした“家族”の構成に含まれていたようです。

宗門人別改帳は、江戸時代での“宗旨”の重要性と、当時の村の構成員と家族形態、転出入の増減や婚姻圏内など、様々なことを知ることができる貴重な資料と言えるでしょう。

 

注1…寺請制という。すべての人はいずれかの寺院の檀那(檀家)となることが定められた。基本的に
    は一家族すべて同じ寺院の檀那となる。

注2…宗門人別帳・宗門御改帳・宗旨人別帳・宗門帳などともいう。

注3…結婚している女性は「誰々女房」や「誰々母」、「誰々後家」など、戸主との続柄の記載のみで
    名を記さない場合が多い。

注4…梶村で代々庄屋役・年番・大肝煎を世襲してきた大瀧家の五代目当主。

注5…従属農民。宗門人別改帳では主家の家族の末尾に記載されることが多い。

参考…新潟県史資料編6近世一
    吉川町史第1巻


  写真①                    写真②
 「下美守郷切利支丹宗旨御改帳」        「下美守郷切利支丹宗旨御改帳」
 (F86:整理中)               (F86:整理中)