江戸時代の村は、幕藩領主から支配の基礎単位として位置づけられました。村の業務は、年貢等諸役の徴収・納入、諸帳簿・文書の作成・提出と保管、治安の維持、災害への対処、村定めの作成、軽微な裁判など多岐にわたっています。現在、市町村や都道府県、国の業務になっているものの一部も村が担当していました。領主からはさまざまな触(ふれ)・達(たっし)が村に文書の形で伝えられ、遵守が命じられました。このように、年貢等諸役の納入を始め、領主の命令を村で請け負う体制がとられていました。これを村請制といいます。領主は村の機能を最大限に利用することにより、スムーズに統治を行うことができました。
村では毎年人別把握を行い、その結果を宗門人別改帳に記載し、領主に提出していました。現代人の目からは、江戸時代は抑圧された極めて固定的な身分制社会で、人の移動も制限され不自由であった、と見られがちです。確かにそうした面もありましたが、人の移動は移動元と移動先の村同士の了解があれば認められていました(資料1)。
明治維新により新政府が誕生し、さまざまな改革が断行されました。新政府は明治5年(1872)4月、太政官布告により庄屋・名主・年寄などの職名を廃止し、戸長・副戸長と改めるよう命じました。これは前年7月の廃藩置県の実施を受け、全国の村役人名を同一名称に揃えるものであり、同時に江戸時代の制度を否定するものでした。その上で新たな地方制度として、これまでの村を無視した大区小区制を設けました。明治6年には柏﨑県が新潟県に合併し、その際に新たな大区小区制が編成され、大区に区長、小区に戸長などが置かれました(資料2)。しかし、官僚的な大区小区制が住民の反発を招いたため、政府は明治11年7月に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の地方三新法を公布します。これは、住民の地方政治への参加を部分的に認め、江戸時代の伝統的な村を復活させることにより、体制の安定を図ろうとしたものでした。地方三新法の導入により大区小区制は廃止され、江戸時代の村が行政単位として復活することになりました。ただし小規模の村はまとめられ、一村または数村に1人の戸長を置くこととなりました。
新潟県は明治12年4月に郡区・町村の新たな編成を行いましたが、地方制度の改正に伴い、さまざまな事務処理が必要になりました。旧書類は新たに設置された郡区役所に引き継がれました。また、府県会規則に基づき同年10月に新潟県会(県議会)が開かれました。第1回選挙は同年6月に行われ、戸長などの役職をつとめる地方の名望家(めいぼうか)が名前を連ねました。地方三新法実施後、明治14年からの松方デフレ政策により深刻な不況が起こりました。この不況は、村のありかたを大きく揺るがしました。この結果、明治17年に三新法の改正が行われ、町村合併による村の財政力強化の方針が打ち出されます。こうして明治21年(1888)に市制・町村制が公布されました。
町村合併はその後、昭和の大合併(1953~61)・平成の大合併(2005~07)と続き、現在に至ります。町村合併により、江戸時代以来の旧町村は姿を消すことになります。ただ、長い歴史のなかで一体性を有していた村は完全に消え去ったのではなく、行政的な意味は失われたものの、集落(区)として残り、共同体としてのありようは現在に息づいていると言えましょう。
資料1 元禄元年(1688)10月 覚(他国他組より移住者宗旨書上、部分)
(請求記号E2410-224)
堀之内村(魚沼市)に移住した他国者の名前・宗旨が書き上げられ、活発な人の移動があったことがうかがえます。
資料2 明治6年(1873)9月〔辞令〕(第十四大区小九区戸長申付)
(請求記号F53-5710)
池平村(魚沼市)桜井長左右が新潟県から戸長に任命されています。