新潟県全般に関する相談:Q6

Q6
質問 太平洋戦争時の新潟県内の空襲の概要が知りたい。
回答

B29爆撃機の本土空襲は、マリアナ群島に空軍基地ができた昭和19年(1944)11月から本格化します。そして、新潟県への来襲は、昭和20年(1945)4月13日が最初でした。以後、6月までは月に2、3回程度の襲来でしたが、7月に入って急激に増え、敗戦までの4か月間で24回の襲来を受けました。このうち、長岡空襲と艦載機による銃爆撃を除けば、大部分が新潟港に対する機雷投下攻撃でした。

新潟港が攻撃目標にされたのは、日本海側の主要港のひとつにあげられ、海軍航空基地、朝鮮・満洲への積出し港、石油精製をはじめとする工業地帯であり、県庁所在地、一大米作地帯の中心地としての機能を有する重要都市であるとされていたからです。そして、新潟県の空襲に対する戦闘機の迎撃はまったくなく、制空権を完全に失っていたため、わずかに高射砲による反撃が4回数えるだけでした。

昭和20年8月1日には、周辺の油田と機械・機械工具を生産する重要な工場のための鉄道中心地であり県内で2番目に多い人工都市の長岡市がB29爆撃機による焼夷弾爆撃の攻撃目標になりました。この攻撃によって、市街地の約80%が罹災し、市長をはじめ1,143人の死者、負傷者350人に達するという大きな被害を受けました。

8月6日に広島市、9日に長崎市に原爆が投下されました。10日、初めて焼夷弾による空襲を受けた新潟市は、次の原子爆弾が投下されるのは新潟市ではないかという予想から、同日県は全市民に徹底疎開を命じます。この時の混乱と動揺をぬぐえないまま、5日後の終戦を迎えました。

参考資料 『新潟県史』通史編8
『新潟県大百科事典』