[第98話]疱瘡神から種痘へ 疱瘡制圧の歩み

 ウイルス感染症で人類が唯一、根絶に成功したのは疱瘡(天然痘)で、WHO(世界保健機関)が、その根絶宣言を出したのは1980(昭和55)年のことです。

 疱瘡は高熱と全身に生じる豆粒状の発疹が化膿、この発疹は呼吸器など内臓にも発し最悪、呼吸不全で死に至る病で、致死率は20~50%と高く、患者からはがれたかさぶたでも1年以上の感染力があり、治癒しても俗に‶あばた″と言われる跡を残したり、失明を引き起こしたりします。「独眼竜」で知られる伊達政宗の右眼や、「米百俵」のエピソードで有名な小林虎三郎の左眼の失明は疱瘡によるものです。

 疱瘡の病魔から逃れるため、古くから疱瘡は赤色を嫌うとされ、会津(福島県)の赤べこのように玩具に赤が多用されたり、寛文12(1672)年に佐渡で疱瘡が流行した時、相川の町では疱瘡除けとして赤牛の腹の下をくぐらせ子供1人銭12文を取る者がいたというように、かつてはまじないや神仏に頼っていました。「新潟県神社寺院仏堂明細帳」には寺社の境内の小さな堂や石のほこらに疱瘡神がまつられているのが散見されます。

 有名なジェンナーによる種痘(牛痘法)が発表されたのは1798(寛政10)年のことですが(注1)、日本では鎖国のため本格的に種痘が普及するのは嘉永2(1849)年以降であり(注2)、漢方と蘭方の対立や体に傷をつけ牛から採取した痘苗接種に対する庶民の恐れや流言などで普及が遅れました。このような中で安政4(1857)年、幕命により蝦夷地に渡りアイヌの人々5000人余に種痘を施し、生涯の種痘実施者は7万人に及んだという新発田出身の桑田立斎や、長崎で種痘を学び嘉永2年に立ち寄った広島藩で藩医に種痘を伝授し普及に助力、江戸でも種痘を行い同6(1853)年に帰島し佐渡最初の種痘医となった長野秋甫など、種痘に活躍した越佐出身の医師がいました。

 維新後、新政府は明治3(1870)年太政官布告で進んで種痘を受けるよう奨励し、種痘医免許制を制定、明治7(1874)年には定期種痘を定めた種痘規則を布達しました。これを受け新潟県は各戸長に対し種痘を受けるよう村民を諭し、種痘の謝礼金は6銭2厘5毛以下とし貧窮者からは謝金を受けないよう、種痘を終えた子には医師の種痘済み証を渡すなどの県庁布告を数度にわたって出しています(注3)。その後、明治9(1876)年制定の天然痘予防規則で種痘接種は義務とされ、明治42(1909)年の種痘法により種痘は国民に定着し、疱瘡の流行はなくなっていきました。

 明治44(1911)年、小出町(現魚沼市)の諏訪神社境内にまつられていた疱瘡神社は、かなり離れた薮神村(現魚沼市)の大石神社に合祀されることになりました。その願書には「時勢ノ変遷ニヨリ到底維持ノ見込相立チ難ク」とあります(注4)。疱瘡は怖いものではなくなっていました。

 日本では昭和51(1976)年以降種痘は行われず、昭和49(1974)年度生まれの人が種痘の定期接種を受けた最後の世代となりました。

(注1)種痘にはワクチンの元になる痘苗を牛からとる牛痘法と人からとる人痘法があり、インドや中国などアジア地域では人痘法が古くから行われていた。日本でも秋月藩(福岡県)藩医の緒方春朔が寛政元(1789)年人痘法による種痘に成功している。

(注2)オランダ商館医モーニッケがバタビアから牛痘苗を輸入し種痘に成功、この痘苗が短期間に日本各地に広まった。これ以前、松前藩(北海道)の中川五郎治がロシヤ抑留中に牛痘法を伝習し帰国後の文政7(1824)年種痘に成功しているが、秘術として普及しなかった。

(注3)「県治報知」

(注4)E1409北魚沼郡四日町神職田中家文書(整理中)

参考文献『人類と感染症の歴史』元国立感染症研究所長加藤茂孝著、『佐渡病院のあゆみ─佐渡厚生連史』佐渡厚生連史編集委員会編

境内の石のほこらにまつられた疱瘡神社
【境内の石のほこらにまつられた疱瘡神社】「新潟県神社明細帳」19-2

「種痘謝礼記」
【「種痘謝礼記」】(請求記号E9915-126)
野菜での謝礼もみえる

「種痘証明書」
【「種痘証明書」】(請求記号E9915-146)