[第94話]みんなが売ってみんなが儲かる 新潟町の魚屋たち

 江戸時代の新潟町(正式名称は新潟浜村)は湊町でした。新潟町では、同じ商売をする店が特定の地域に集まっていました。これを町座まちざといいます。このような形は、城下町などに多く見られます。新潟町の町座には、本町通り信濃川前の材木問屋が並ぶ材木町(現在の上大川前通り1、2番町(注))や、本町通り二の町から十七軒町(現在の本町通り5~10番町)の絹布・繰綿・小間物などを扱う表店おもてだななどがありました。

 魚屋にも町座がありました。魚屋といっても問屋に当たる大助おおすけと、天秤棒を担いで魚を売り歩く小助こすけがあり、大助買が集まって、本町通り十四軒町に「助買町(さかなまち)」をつくり、町座を形成していたのです。場所は現在の本町通11番町西側です。また大助買は、まとめ役である年行事などの役員を決め、魚販売の決まりも作っていました。一方、小助買は決まった町には住んではおらず、同業組合である株仲間はありましたが、町座を形成してはいませんでした。

 大助買と小助買は、魚の販売をめぐってたびたび争いました。両者の争いが話し合いで解決しない場合は、新潟町奉行所に訴えます。奉行所では両者の言い分を聞き、証拠書類をもとに裁決を下しました。元文元年(1736)の町奉行所からの「申渡」に、その裁定が見えます。新潟から離れた村上などの漁師が魚を持ってきたときは、大助買がその者の魚販売方法を決めるとし、一方、新潟町から近い関屋で捕った鮭と鱒は、大助買と小助買の両者が買い販売してよい、という裁定でした。

 問屋である大助買は、自分たちの権利を守ろうとし、小助買はそれに対抗して自らの販売権拡大をめざしていたのでしょう。奉行所の裁定は、両者が商売を続けていくことができるように、配慮されたものになっています。

 同一地域で、どちらかを排除するのではなく、互いに競争させながらも、経済活動を盛り上げる仕組みを築きあげていっているようにもみえます。

(注)江戸時代の信濃川の川幅は、現在の信濃川の川幅に比べて広かったため、このようになっていました。

「大助買小助買出入ニ付申付候覚」元文元年(1736)【「大助買小助買出入ニ付申付候覚」元文元年(1736)】(請求記号E1015-188)

「覚」貞享5年(1688)9月晦日大助買と小助買の販売する魚について定めています。
【「覚」貞享5年(1688)9月晦日】(請求記号E1015-9)