[第92話]庄屋は交代制?石神村の庄屋の決め方

 江戸時代、幕府や藩と村をつなぐ村役人の中に庄屋(注1)という職があります。庄屋は領主側の指示・命令を村人に伝え、厳守させるという役割と共に、村の責任者として村にかかわる問題全般にわたって先頭に立ち村人をまとめる、現代の村長のような役職です。庄屋は行政を司る末端としての立ち位置ではありますが、村の代表者として格式の高い百姓などから選ばれます。ひとつの家が代々引き継ぐ世襲制が多いのですが、地域や時代によって投票などの入れ札、村人が順番に勤める輪番制などもありました。具体的にどのようにして庄屋を決めていたのか、石神村(現上越市)の林泉寺文書から見てみましょう。

 石神村の庄屋役の決め方は「相究メ申証文之事」(請求記号E0806-848)から読み取れます。証文には「これ(天明4年)まで石神村には決まった庄屋はおらず、その時々相談のうえ1年間庄屋を勤めていた。しかし、1年交代では不便であるため、惣百姓一同が相談して庄屋を勤める期間を2年間にする。庄屋役の在任期間中であっても勤務態度が悪ければいつでもやめさせることができる。また、庄屋が2年満了で退役した場合は、村内で相談し庄屋役に相応しい人を選び、次の庄屋役を勤めさせる」と書かれています。つまり、石神村には世襲制の庄屋はおらず、その都度村人たちが相談して庄屋役を決めてきた、これからも選出方法は変更しないが、在任期間のみ変更するという内容です。このことから、石神村は同じ家が代々庄屋を勤めるわけではなく、惣百姓の相談によって村内から選出された人物が庄屋になっていることがわかります。また、在任期間中であっても庄屋の勤務態度が悪ければすぐにやめさせることができるとも書かれており、村人は常に庄屋を評価し、庄屋に村の政治を一任しているわけではなかったようです。さらに、この証文は石神村の惣百姓が納得した上で定めたものであるということも末尾に書かれています。つまり、村の特別な人物が独断で定めた決まりではなく、村人の総意で定められていました。

 この一枚の証文は、越後のとある村がどのように運営されていたかが窺える貴重な資料なのです。

(注1)…名主、肝煎とも呼ぶ

「相究メ申証文之事」の画像1 「相究メ申証文之事」の画像2
【相究メ申証文之事】(請求記号E0806-848)