[第89話]明治に「人間一生中に見ること難き」日食を見た!

 明治20年(1887)8月19日、新潟県、福島県、北関東において皆既日食が観測されました。日食とは、月が太陽と地球との間にきて太陽光線を遮る現象のことです。その中でも、太陽面が月面により全部おおわれることを皆既日食といいます。この日に皆既日食が起こることは何週間も前から新聞で取り上げられ、政府は官報に各地の観測情報を報告するように発表し、一般市民にも、日食観測を行うように奨励しました。新潟測候所は、南蒲原郡東大崎村(現三条市)にある永明寺山(ようめいじやま)の山頂に観測台を設置し、日食の観測にあたりました(注1)。また県内各地でも観測され、その様子は連日新聞に掲載され、人々の関心を引きました。

 東大崎村での日食観測は、天候が危ぶまれながらも成功しました。専門家による観測で成功したのは永明寺山だけで、この時、日本で初めて皆既日食中のコロナ(注2)の写真が撮影されました。観測して描かれた日食皆既図は内務省に提出され、また全国各地から皆既日食の観測図が集められました。現在、国立天文台三鷹図書室が所蔵しています。

 東大崎村に近い粟生津(あおうづ)村(現燕市)にあった長善館(注3)の鈴木惕軒(てきけん)の日記には、「十九日曇、(中略)午后二時日食始、四時皆既」とあります。粟生津村でもしっかりと観測できたようです。さらに、惕軒の息子の鹿之助の日記にはより克明に当日の様子が書かれています。それによると、19日は前夜からの激しい雨で、庭が池のようになるほどで、「人間一生中に見ること難き日食既の日なるに此までは二十六七日も照続きながら」今日雨であるのは不幸の日だ、と嘆いています。ところが12時頃になって雨が止み、光が差しはじめます。大喜びの鹿之助は、病をおして庭に観測のための道具と椅子を準備します。いよいよ日食が始まり図を描き始めますが、上手く描けずにいる間に雲がかかり、上の方は描き写せませんでした。そのことを嘆きながらも楽しんでいる様子が日記の記述から伝わってきます。

 長善館で教員を務めていた鹿之助は、実はこの年6月に突然体調を崩し、7月には授業も行えず、夏季休業に入っても体調は悪化する一方でした。そして療養の甲斐もなく10月2日に亡くなってしまいます。そのような中で、この日は、幾条の光輝を放つコロナや暗闇の中の星を見ることができ、心躍る出来事だったのではないでしょうか。

 日本で次に皆既日食が観測できるのは、2035年になります。

(注1)観測台があった場所は、現在大崎山公園となっていて、日食観測の記念碑が建てられています。
(注2)皆既日食の際、青白く冠状に光って見える太陽の周囲を取り巻く薄いガス。
(注3)長善館は、天保4年(1833)、南蒲原郡粟生津村に鈴木文臺(ぶんたい)が開設した私塾で、多くの学者や勤王家、医師、政治家などを輩出し、明治44年(1911)まで存立しました。鈴木惕軒は二代目館主、鹿之助は惕軒の子で、柿園(しえん)と号しました。

新潟新聞に掲載された測候所において写された観測図「新潟新聞」明治20年8月20日
【新潟新聞に掲載された測候所において写された観測図「新潟新聞」明治20年8月20日】
(東京大学大学院法学政治学研究科附属 近代日本法政史料センター 明治新聞雑誌文庫所蔵)

「鈴木惕軒の日記」惕軒日記(第19号)
「鈴木惕軒の日記」【惕軒日記(第19号)】E9306-319

「鈴木鹿之助の日記」日録8号
「鈴木鹿之助の日記」【日録8号】E9306-483