[第87話]石神村林泉寺文書に見る、ある女性の生涯

 頸城郡石神村(現上越市頸城区)に、江戸時代の前半に創建された浄土真宗の林泉寺という寺での話です。19世紀の初め、寺には常野(つねの)という娘がいました。石神村林泉寺文書(注)には、常野に関する書状が約130点あり、彼女の書いた書状などを見ると、当時の一人の女性の生き方をうかがい知ることができます。

 常野は文化13年(1816)に13歳で結婚しました。その後の経緯はよくわかりませんが、天保4年(1833)、30歳の時に二度目の結婚をして近隣の裕福な農家に嫁いだとされています。しかしこれも4年で夫から離縁され、その後別な農家に嫁ぎ再婚しましたが、9か月で離縁されまた実家に戻ります。

 天保10年(1839)10月、彼女は、高田へ目の治療に行くと嘘をつき、以前知り合った男と一緒に家族に何も知らせぬまま江戸へ旅立ちます。男は常野の着物など持ち物を質に入れ、彼女に結婚を迫るなどして振り回すのですが、彼女はなぜか江戸まで同行します。10月のうちに江戸に到着すると、男から置き去りにされてしまい、常野は親戚のもとに身を寄せます。さらに実家からは突然家を出て身勝手な行動をする常野に対し、絶縁する旨の手紙が届けられました。

 その後、常野は旗本の家の女中として働きますが、朝早くからの重労働のためすぐに辞め、別なところでまた女中として働くなど、しばらくはいくつかの仕事を転々としたようです。給料も一時は良かったらしいのですが、翌年2月に「食べ物には不自由がないが、故郷を出た時の着物しかなく寒い。着物を送ってほしい」と、縁を切られている実家の母へ宛てた手紙でお願いしています。しかし故郷に戻る気持ちは全くないのです。江戸での生活に魅力があったのでしょう。

 江戸に着いて1年ほど経った頃、常野は同じ頸城地方から来ていた井澤博輔と結婚をします。この頃、常野は名前を「きん」と改めます。しかし、しばらくして博輔が失業し、ふたりは貧乏で服はぼろぼろの極貧ともいえる生活を送ることになります。この頃江戸にいた弟は、この姉の姿を見て呆れてしまいます。結局、常野は夫と離縁し(形式的には夫から離縁され)、一度は石神村の実家に戻りました。ところが、博輔は「遠山の金さん」として知られる町奉行遠山金四郎景元のもとで働くことができるようになると、常野は再び江戸へ向かい、家族の反対を押し切ってふたりは再婚したのでした。常野は「きん」として江戸にとどまり、50歳で亡くなったということです。

 江戸時代にこのような奔放ともいえる女性がいたことは驚きかも知れませんが、越後の女性のたくましさが感じられるのではないでしょうか。

(注)林泉寺文書(請求記号E9806)は、当館ホームページ「インターネット古文書講座」に一部掲載中。石神村の林泉寺はすでに廃寺となっています。
中頸城郡石神村林泉寺文書「常野から母に宛てた手紙」(一部)
「常野から母に宛てた手紙」(一部)【中頸城郡石神村林泉寺文書】(請求記号E9806-1699)