[第82話]遊びじゃないよ、みんなが大マジメ 「こども銀行」の風景

 窓口や帳簿付けなどの預貯金業務を子どもたちが行う。しかも支店長や支店長代理までもが子どもたち。かつて、こんな銀行が日本中にありました。戦後、通貨安定とインフレ抑制のため国が推し進めた貯蓄奨励策の一環として、日本中の多くの小中学校で設立されたもので、「こども銀行」(注)と呼ばれました。当館の「優良こども銀行表彰関係」文書を見ると、その実態が分かります。

 昭和26年度に大蔵省(現財務省)及び日本銀行から優秀な銀行として中央表彰された「六日町小学校こども銀行」(旧南魚沼郡六日町)を例にとると、行員は、選挙によって選出された支店長1名、支店長代理1名、勘定係3名、原簿係3名、窓口係3名、雑係2名からなっていました。場所は学校の階段下を利用した1間×3間の小さなスペースでしたが、壁に「こども銀行」と書かれた大きな杉板の看板を掲出し、勘定台には三角の係名標柱を並べた本格的なもので、預金通帳交付一覧表、営業日記、原簿などの帳簿類のほか、本箱を代用した金庫が備え付けられていました。

 そこでは、毎週火曜日と金曜日、朝礼前と昼食後の2回ずつ営業が行われ、在校児童の95%に当たる1189人が利用者となって、お小遣いだけでなく荷物運びや家畜飼育などの手伝いの勤労対価から、総額22万8千円余りのお金が預金されていました。

このような、子どもたちが自主的に学校内で営業活動を行う銀行が、本県にもたくさん出来ていきましたが、その運営を支えたのが「親銀行」でした。「こども銀行」で扱う通帳類などの支給のほか、貯蓄奨励の手引き書の配布、学校への出張講演、本物の銀行店舗を開放した「こども銀行」の営業など、様々な取り組みで支援を行いました。

 こうして、昭和23年頃から設立が始まった本県の「こども銀行」は、ピーク時の昭和30年(1955)前後には、その数は1200行を超え、全国でも指折りの数となっていました。

 国や金融機関の積極的な誘導・支援があって、急速に数を増やした「こども銀行」ですが、昭和30年代半ばになると全国的に次第に数を減らしていきます。これは、経済復興期から高度経済成長期への移行や、テレビによる消費文化の普及などにより、人々の指向が貯蓄から消費に変わっていったことが大きな要因となっているようです。

 「こども銀行」は、今では見られなくなった懐かしい学校風景の一コマです。

(注)預貯金は代表者名義の1つの通帳に集約され、本物の金融機関(親銀行)に預け入れされ、付された利息は、各人の預貯金残高に応じて配分されるのが一般的でした。親となる金融機関の種類によって、「○○銀行」(親金融機関が銀行)、「○○郵便局」(親金融機関が郵便局)、「○○協同組合」(親金融機関が農業協同組合等)などと名乗っていましたが、これらの総称として「こども銀行」と呼ばれていました。

優良こども銀行表彰関係
【優良こども銀行表彰関係】
(請求記号H93総地48)(請求記号H93総地84)
(請求記号H93総地127)(請求記号H93総地178)

こども銀行の窓口風景(昭和31年)
【こども銀行の窓口風景(昭和31年)】(請求記号H93総地127)

本物の銀行店舗開放風景:客も行員も全員子どもたち(昭和33年)
【本物の銀行店舗開放風景:客も行員も全員子どもたち(昭和33年)】(請求記号H93総地127)