[第81話]代議士山際敬雄の想い

 西蒲原郡選出の衆議院議員山際よしは、議員最終年にあたる明治45年(1912)の第25議会で、活発に政治活動を行いました。2月21日に第141号「狩猟期間延期ノ件」で、越後・越中・信濃の国境沿いの狩猟期間を4月30日まで延長する議案の紹介議員になっています。3月5日には第353号「信濃・阿賀野両河川治水ノ件」で、両河川流域を長年悩ましてきた洪水を「完全ナル工事」で改修する議案の紹介議員になりました。3月7日には、第280号「上越鉄道敷設速成ノ件」の紹介議員にもなっています。

 しかし、この議会で敬雄がもっとも力を入れたのは、敬雄ほか10名が2月7日に提出した「羽越沿岸鉄道建設ニ関スル建議案」(現在の羽越本線)でした。議案提出の理由を敬雄は、日本海沿岸は冬季に「天然ノ虐待」を受けており、海上は、数か月間風波が常に強く船舶の航行が絶え、陸上も数尺(1尺は約30.3センチ)の積雪におおわれ交通が遮断すると指摘していました。その解決策として「文明ノ利器」である鉄道建設を訴え、未建設の新発田―秋田間の敷設を請願しました(「衆議院議事速記録」第6号)。日本海沿岸住民の悲願を、敬雄は議会で訴えたのです。しかし実際に羽越本線が全通するのは、敬雄の議案提出から13年を経過した大正13年(1924)でした。いかに鉄道事業が、難事業であったのかがわかります。

 さて、この議案提出でちょっとしたハプニングが起こりました。それは2月22日、衆議院議長大岡育造が敬雄の名前を間違え、父山際七司しちじの名前を読み上げたのです。この時の模様を、敬雄は弟の和雄に次のように伝えています(明治45年2月22日付 山際敬雄書簡 山際和雄宛、以下本文は現代表記)。

 本日の本会議で、私の演説を議長ヘ通告しました。通告の順番で議長が私を呼ぶにあたり、父上の御名前を呼び上げ、演壇にのぼった後訂正しました。私は、父親の名前を聞き、強い想いにかられました。先輩の議員連も、同様の感想を抱いたそうです。

 敬雄の父山際七司は、自由民権家として全国的に著名な人物でした。しかし、第1回衆議院議員選挙で当選後の翌24年(1881)42歳の若さで急逝します。この時敬雄は19歳、山際家の長男としてその後苦労を重ね、ようやく明治41年(1908)に衆議院議員に当選しました。この間の苦労が、敬雄の脳裏をかすめたのです。ちなみに、議長大岡の名前読み間違いは「速記録」に記録されておらず、なぜ間違えたのか不明です。さっそうたる敬雄の立ち居振る舞いに、大岡が往年の七司をかさねたのでしょうか。今となっては、誰もわかりません。

山際敬雄書簡 山際和雄宛(明治45年2月22日付)
【山際敬雄書簡 山際和雄宛(明治45年2月22日付)】(整理中)