[第80話]いつの時代も一喜一憂、球児の想い

 いつの時代も高校球児にとって憧れの夏の全国大会開催の聖地、甲子園。

 大正4年(1915)第1回全国中等学校野球優勝大会(現在の夏の甲子園大会の前身)が豊中球場(大阪府豊中市)で開催されました。

 その憧れの全国大会に新潟県から出場権を得たのが、長岡中学校(現在の県立長岡高等学校)です。

 大正7年(1918)の第4回全国中等学校野球優勝大会に初出場してから、大正11年(1922)までの4年連続で全国大会に出場しています(第4回大会は米騒動で直前に中止)。

 大正8年(1919)、北陸大会(注1)決勝で石川県師範学校(現在の金沢大学教育学部の前身)に9対4で勝ち優勝を決め、第5回全国中等学校野球優勝大会に駒を進めることになりました。その時の様子が、写真1です。全国大会出場に向けて出発前に選手の柳下氏が友人の平賀氏に宛てた手紙です。

 「7月26日出発、去る3日帰岡しました。御陰で再び優勝しました。又、猛烈なる練習中、明日又大阪へ出陣するのです。(中略)大阪は13日から5日間、優勝は予期しません。一勝でもすれば、ねがいれりです。かしはかない望みをかけれ(中略)勝(て)ばその勝は技術じゃあ無い猛烈な練習と団結とにあるのです(後略)」

 全国大会に出場するうれしい気持ちと全国大会初出場の不安な心情が吐露されています。

 当時の新潟県の中等学校野球(高校野球)は、長岡中学校をはじめ、新潟中学校(現在の県立新潟高等学校)、高田中学校(現在の県立高田高等学校)、新潟商業学校(現在の県立新潟商業高等学校)など、どこの学校でも野球部が創設されて熱を帯びてきた時代です。

 長岡中学校の全国大会での初めての試合となった第5回大会の1回戦は、九州代表の小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)との対戦でした。長岡中学校は北陸大会終了後2人の内野手が故障を起こし、不安な船出となりました。雨天で1日順延し、8月15日に鳴尾球場(注2)で試合が開始されました。試合の序盤から小倉中学校は猛打爆発し、大勢を決めます。長岡中学校は1点を返すにとどまり、1対9で敗れます。

 その試合のことを再び柳下氏は友人の平賀氏に手紙を宛てています(写真2)。

 「大阪では敗軍の将気取りで帰りました。ベストを尽くしたんですが破られました。大阪に居られる先輩諸兄にも顔の会わしようが無い位でした(後略)」大差での敗戦となり、責任を感じ嘆いています。

 誰もが家族や地元、先輩方の期待を一身に受けて、大会に出場します。敗戦後、自分の力を発揮できなかった、期待に応えられなかったという思いが募るのはいつの時代も同じようです。

(注1)北陸大会は、福井、石川、富山、新潟、長野の5県からなり、優勝校が全国大会の出場を勝ち取ります。現在の北信越大会に当たる大会です。
(注2)第1回、第2回大会は豊中球場(大阪府豊中市。現在は跡地には記念公園)。第3回大会~第9回大会まで鳴尾球場(兵庫県西宮市。現在は跡地にはモニュメントがあり、それには中止となった第4回大会出場校名に長岡中学校、第9回大会トーナメント表には新潟商業学校の名前があります)。第10回大会から甲子園球場で開催されています。

柳下氏が友人の平賀氏に宛てた手紙(写真1)
【写真1】(請求記号E9501 594-77)

柳下氏が友人の平賀氏に宛てた手紙(写真2)
【写真2】(請求記号E9501 594-82)