[第77話]初志貫徹!貫き通した上越線への想い!

 雪深い魚沼地方で、「陸の孤島といわれる魚沼地方の発展は鉄道敷設ふせつにあり」と唱えたのは、地元出身の上越線の父といわれた岡村みつぐです。

 明治の黎明れいめい期に戸長や郡長を歴任した岡村は、「交通の発達しないところに地域の繁栄は望めない」として、明治15年(1882)に南魚沼郡長を辞し、上越線敷設のために私財を投げ打ち、政府に働きかけていくこととなります。

 しかし、県内が鉄道敷設ブームに湧く明治22年(1889)、政府は上越線敷設について「地勢険しく、積雪多く、敷設工事は困難で、鉄道を通してもずいどう区間が短く、勾配こうばいが急で、列車が遅く、年間を通じて列車運転が不可能」として却下しました。

 あきらめきれない岡村は、明治23年(1890)8月、「上越鉄道会社創設再願書」(注)を再申請します。彼の主張は、首都圏と新潟を結ぶ最短ルートであること、国防上必要であること、物資の輸送や利用数などを見込んだ開通後の有効性などがありました。

 また、路線を沼垂、新発田まで延伸し、さらには米沢地方から東北線へ連結する壮大な構想も明示されていました。しかし、この陳情も実ることはありませんでした。

 岡村はその後、明治27年(1894)衆議院議員となり、上越鉄道敷設の必要性を国政の場においても主張し続けました。政府の動きの鈍さから、国費に頼っての鉄道敷設に見切りをつけた岡村は、自ら上越鉄道株式会社を起こし鉄道敷設に乗り出しました。

 しかし日清戦争後の物価高騰で資金難に陥り、会社が解散に追い込まれます。とうとう岡村の資産も底をつき、万策尽きてしまいます。けれども、「我が志す所、何れの日か必ずしか成就すべし」と述べ、上越線の実現を信じて疑いませんでした。

明治後期には、上越線敷設の有志らが政友会との結びつきを強めていきました。政友会も上越線敷設運動を利用して、党勢拡張を図っていきました。

 ついに大正8年(1919)、帝国議会の議決を得て上越線敷設工事が進むことになります。大正9年(1920)11月には、岡村は宮内から東小千谷間開通式に来賓として迎えられ、人力車で参列し祝辞を述べています。

 しかし、大正11年(1922)1月、上越線の全通を見ることなく老衰のため死去しました(享年87)。

 岡村が、志を立ててから約50年の歳月を経て、昭和6年 (1931)9月1日、上越線は全通しました。上越線は、魚沼地方や新潟県に多くの恩恵を与える存在となっていきました。

(注)【明治20年鉄道関係書類】(請求記号H97土監135)として他の資料といっしょにまとまっています。

明治20年鉄道関係書類
【明治20年鉄道関係書類】(請求記号H97土監135)

明治20年鉄道関係書類「上越鉄道会社創設再願書」