[第76話]東蒲原郡のお引っ越し 茶碗の数も確認します

 江戸時代、東蒲原郡は会津藩の支配下にあり、明治維新後は会津地方とともに福島県に属していました。明治19年(1886)5月10日、東蒲原郡を新潟県へ編入させる勅令が出されます。背景には会津地方の分県運動がありました。分県要求の根拠の1つに東蒲原郡からみて福島県庁があまりにも遠方にあることを挙げていて、政府は分県運動の口実となっていた東蒲原郡を切り離すことで、この動きを抑えこもうとしたようです。

 福島県と新潟県の引き継ぎは、5月25日付けで行われました。その際、視察に赴いた新潟県令篠崎五郎に東蒲原郡の代表者33名が、東蒲原郡と郡役所を今まで通りに存続するよう願い出ました。当時、小郡独立は不経済だから、郡役所を廃止して北蒲原郡に併合すべきという風聞ふうぶんがあったようです。代表者たちは、住民が暮らす地域は十里(約40キロメートル)にわたっていて小郡ではないこと、700年以上1郡として統治されてきたことをあげて郡と郡役所の存続を請願したのです。結果として、郡の廃止や併合は行われることなく、現在の東蒲原郡阿賀町として残ることとなりました。

 編入の事務手続きは、津川町(現阿賀町)の郡役所で行われ、福島県から新潟県へさまざまな事務や書類が引き継がれました。その引き継ぎ資料をまとめたものが、文書館所蔵の『明治十九年東蒲原郡引受書』です。その中にある「東蒲原郡役所引渡目録」には様々な帳簿類の他に、土瓶10個や茶碗20個、ランプ1個に蚊帳1張、鍬や肥桶まで事細かに引き渡される品々が書き出されています。郡役所そのものは移動しなくても、その中にある品々を茶碗1つまで数え上げて確認しています。行政文書だけでなく、備品にいたるまで新潟県への引き継ぎ作業が行われました。福島県から新潟県になるということは、単なる名前の書き換え以上に手間のかかる作業だったようです。

 福島県東蒲原郡が新潟県東蒲原郡となったことで現在の県域がほぼ画定し、明治4年(1871)の廃藩置県から15年目にようやく現在の新潟県が完成しました。

「東蒲原郡の代表者から新潟県令への上申書」明治十九年東蒲原郡引受書
【「東蒲原郡の代表者から新潟県令への上申書」明治十九年東蒲原郡引受書】(請求記号H92総地2)

「東蒲原郡役所引渡目録」明治十九年東蒲原郡引受書
【「東蒲原郡役所引渡目録」明治十九年東蒲原郡引受書】(請求記号H92総地2)