[第73話]越後の出稼ぎ事情 海岸の村の場合

 江戸時代、越後では出稼ぎが盛んに行われていました。越後で出稼ぎが多かった理由は、豪雪のほかにも、天候不順による冷害、干ばつ、水害などの自然災害が多かったことなどによります。豪雪地帯は冬季間の出稼ぎが多かったのですが、海岸の村々からは一年を通じて出稼ぎに行きました。
長岡藩領五十嵐浜村(現新潟市西区)も、出稼ぎが行われた海岸の村の一つでした。
当館所蔵の五十嵐浜村の文書から、その事情を探ってみます。

 嘉永6年(1853)の村の概要を記した帳簿である「明細帳」によると、五十嵐浜村は1,004石高余の大きな村で、家数は301軒、人口は男1,057人、女1,029人の計2,086人でした。ほとんどが農業に従事していましたが、大工が3軒ありました。

 「安政5年(1858)根限者ねかぎりもの他方たほうより養子ようし旅稼留帳たびかせぎとめちょう」から、幕末の五十嵐浜村の出稼ぎの様子を知ることができます。長岡藩では、他領や他国に稼ぎに行く人を、今の戸籍にあたる「人別帳」からはずしました。これを「根限ねかぎり」と言い、期間は5年間としました。「根限り」願を出させたのは、出稼ぎに行った者が出稼ぎ先で犯罪に関わると、犯罪者の身元調査などで出身村にも迷惑がおよぶからです。この文書には、安政2年(1855)から慶応3年(1867)の13年間の五十嵐浜村の「根限り」願いを出した者について記されています。出稼ぎに行ったのは、男75人、女42人の計117人で、当主の妻、兄弟、姉妹、子、孫と多岐にわたりますが、当主の出稼ぎは記されていません。これは、家を守る者が必要であったからだと思われます。

 五十嵐浜村は、北国街道の交通の要地だったので、出稼ぎに行きやすかったかもしれませんが、越後では家を守りながら、出稼ぎで生計を維持する家が多かったという実態が見えてきます。

「根限者 他方ゟ養子 旅稼留帳」の画像1

「根限者 他方ゟ養子 旅稼留帳」の画像2
【根限者 他方ゟ養子 旅稼留帳】(請求記号E1313-143)