[第6話]気象庁が購入を熱望して止まなかった一眼科医の日記

 竹山日記は、旧分水町(現燕市)熊森の目薬「真珠散しんじゅさん」の製造販売兼眼科医である竹山とおる(5代祐卜ゆうぼく)が、嘉永2年(1849)正月から明治11年(1878)10月、49歳で死去するまでの30年間をつづった日記です。蒲原郡の一隅に住んだ一眼科医の日記ですが、日本の歴史上でも稀有けうにして、貴重な日記の一つです。例えば、そこに記された蒲原郡内の当時の天候は、現在の気象庁でも記録できないほど詳しく毎日記録されていました。

竹山亨(5代祐卜)の画像
【竹山亨(5代祐卜)】
(『香山竹山屯先生追憶之栞』より引用)
竹山日記の画像
【竹山日記】
(請求記号CKBクタ)

 戦後、気象庁は何度か竹山家を訪れ、竹山日記の譲渡をお願いしましたが、留守を守る未亡人(池田謙斎けんさいの娘)は応諾せず、最後は分水町へ寄贈されます。その気象庁がのどから手が出るほど欲しがった一例を紹介します。

 長岡藩筆頭家老稲垣平助は、戊辰戦争のときに新政府軍の攻撃を受け、長岡落城後加茂へ退却、慶応4年(1868)5月26日、官軍へ投降して藩を救う目的で、病臥をおして脱走します。翌27日には、三根山藩領和納わのう村の某家に身を寄せますが、約20日後の6月17日夜、五ヶ浜(旧巻町)へ向かいます。五ヶ峠にかかるころから天候が急変します。大風雨と大雷鳴で船出ができません。翌18日は、打って変わって快晴の天候です。出雲崎の官軍陣営へ向けて船出し、無事に投降します。

 嵐を呼ぶ脱出シーン、そして翌朝の快晴。まるで、映画のワンシーンのような天候の変化です。しかし、作り話ではありません。「竹山日記」はこの日の天候をきちんと記録しています。

 「晩方より曇陰り、暮れ方遠雷ニ・三声、又曇り、日暮れより陰り、日暮れ小風、それより又微雨、夜より雷鳴、止みそれより微雨、夜より止む。夜に入り大雷五・七声、それより大雨、夜より止む。小風又止む。夜に入り又風。夜又遠雷。夜半前より晴れ」とあります。

 稲垣平助が出かける時をねらったかのように、この時間帯だけ、5回から7回もの大雷鳴の大雨が降ったことがわかります。また翌日は、「快晴また、快々晴」と短く記録しています。

 当時の天候を知りたい方には、ぜひご利用をいただきたいです。