[第59話]『町』から『市』への昇格競争 垣間見える町のプライド

 明治21年(1888)に市制・町村制が公布され、翌年4月1日に施行されました。これにより新市町村が発足し、新潟にいがた区(現新潟市の一部)が県下でただ一つ内務大臣から市の指定を受け、市制をしきました。次に長岡ながおか町が、続いて高田たかだ町(現上越じょうえつ市)が明治期に市へ昇格していき、やがて昭和に入り三条さんじょう町、柏崎かしわざき町、新発田しばた町の順に市へ昇格していきます。では、当時の人々は「市制」に対して何を期待していたのでしょうか。

 長岡町では、明治38年(1905)3月に町長から県知事に対して市制施行の請願書が提出されます。翌39年(1906)1月に郡の廃合の問題が起き、郡制の利害に引き込まれないために、長岡は早急に古志こし郡から独立すべきだというのが理由のようです。

 高田町では、明治44年(1911)2月23日に町長から県知事に対し市制施行の請願書が提出されます。中頸城なかくびき郡では住民の大多数が農業に従事しているが、高田町は大都会であり、人情、風俗、職業の種類、生活の程度、文化発達等その趣が異なるため、同じ郡の下では常に利害の衝突を来たしていること。そして、これはお互いの利益にも郡のためにもならないため、早く他の村落地方と分離し独立したい(注1)というのが理由のようです。

 三条町では、昭和8年(1933)10月4日に町長から内務大臣に市制施行の上申書が提出されます。大正から昭和にかけて、金物業を中心とする商工業の発達が著しく、長岡市に次ぐ一大商工業都市としての地位を固めつつあったこと、昭和5年(1930)の国勢調査の結果、人口3万2千人を越え、高田市を上回ったことなどが理由のようです。

 柏崎町では、昭和15年(1940)5月30日に町長から内務大臣に対し市制施行の上申書が提出されます。人口約3万2千人。市制施行は町民の待望するところで、特に神武紀元二千六百年(注2)の歴史的に意義深い年に実現したいという思いがあったようです。同日に開かれた町議会の議事録をみると、維新の初めに柏崎県庁が置かれた所であるにもかかわらず、長岡に先を越されたことに対する複雑な思いや、町発展のために全力を尽くし国家に貢献する、国の大飛躍に歩調を合わせ地方進展を期するといったような戦時特有の理由もうかがえます。

 新発田町では、昭和18年(1943)1月13日にさるはし村を合併し新発田市を置くことが町議会で議決されます。当時、市制施行には人口3万人以上を条件としていたため、新発田町は若干の人口不足で市制を施行できないでいました。町議会の議事録をみると、名実ともに下越の中心都市であり、県下の重要都市であると自負してきたにもかかわらず、市制施行が三条、柏崎より遅れたことに対する無念の思いが伝わってきます。3月5日、両町村長連名で内務大臣に対し市制施行上申書が提出されますが、戦時中の内務省令の改正により、一時断念せざるを得なくなります。昭和22年(1947)1月1日になり、県内第6番目の市として新発田市が誕生しました。

 これらのことから、当時の市制志向の背景として、明治の頃には郡から独立し、周辺の町村と一線を画して自らの権限を拡充したいとの思惑が、昭和になると『市になってしかるべき』との自負や他の町村に対するプライドが見て取れます。町から市になることを一般的に昇格といいますが、住民には市は町より格が上という意識があり、住民は昇格後の「市民」という呼称に誇りをもっていたようです。事実、町村と市では国・県の扱いに違いがあり、市制に対する住民や実業界の期待が目に浮かんできます。

(注1)『市は直接府県に、町村は第一次に郡、第二次に府県に包括される。』(市制町村制の骨子より)
(注2)昭和15年(西暦1940年)が初代天皇である神武天皇の即位から2600年目に当たる。

高田市制施行関係書類
(請求記号H92総地150)

市制施行上申書 柏崎町
(請求記号H92総地265)

市制施行上申書 新発田町
(請求記号H92総地261)