[第50話]新潟県「国道」事始メ 明治初期、道路関係公文書に国道の成り立ちを見る

 新潟県内には、現在26本の国道が通っています。この国道はそもそも、いつどのようにしてできたのでしょうか。

 古代から江戸時代までは時の支配者がその体制を維持するため、主要な道路は維持管理をしていました。特に、軍事に関わりの深い道路は重視されていました。

 慶応3年(1867)、江戸幕府が倒れて明治政府になると、道路政策も変化していきます。それは新潟を含む5大開港場に通ずる道路と、東京を起点とする全国的な大動脈の道路など、人の移動・物の輸送等を考慮した政策になっていくことからうかがえます。

 明治6年(1873)、「河港道路修築規則」が布達されると、新潟県は道路を幹線と支線に分け、1等道路は北陸道(注1)、2等道路は三国道(注2)・岩代道(注3)・羽前道(注4)、3等道路は1・2等道路に接続する枝道としました。道路費用の負担区分は1・2等道路が国6割・府県4割、3等道路は地元負担となりました。
 さらに明治9年(1876)、県は県内の宿駅(街道の旅客を宿し、荷物の運搬に要する人馬をつなぐ設備のあるところ)・里程(街道の距離・行程)と県道を調査し「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」としてまとめ、明治10年に内務省に提出します。

「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」の画像
【「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」】
(請求記号H97土監48)

新潟県管内道路等級表の画像
【新潟県管内道路等級表(上記簿冊内)】

達線路之宿駅管轄境界住位置之図の画像
【達線路之宿駅管轄境界住位置之図(上記簿冊内)】

 これは明治9年の太政官達第60号で、国道・県道・里程が定められたことにより作成されたものです。この太政官達によって、国道1等は東京より開港場までに達する道路、国道2等は東京より伊勢や軍の駐屯地に達する道路、国道3等は各県庁に達する道路、県道は各県を接続し各軍の分営地に達する道路等と定められました。そして、1等の道幅7間など等別の道幅も規定されました。これが国道の始まりです。国の道路政策としては、明治6年の河港道路修築規則で道路の等級付けが行われ、明治9年の太政官達第60号で、道路等級の廃止と国道県道里程が制定されたのです。

 この「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」によると、新潟県の国道1等は東京より中山道を経由し長野県を経て高田へ出て北陸道で新潟開港場へ達するものと、群馬県高崎より分かれて三国道で新潟開港場へ達するものが記されています。国道2等は該当が無く、国道3等は高田より富山県へ入る市振いちぶりまでと記されています。

 このように、県内の国道は、長野県から高田に入り新潟までの北国街道(注5)と、群馬県から湯沢・長岡を通って新潟への道路、そして高田から富山県へ入る北陸道の3本から始まりました。また、この時に作成された里程は県庁所在地を起点としました。これは今までの中心地であった城下町の意識を払拭して、新しく県庁を意識させようとしたためです。

 「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」からは、明治初期における新潟県の道路の姿があざやかに見えてきます。それはまた、新潟県の今日の道路網につながる原形でもあるのです。

注1:北陸道は、古代より都から北陸地方を通り、越後から佐渡に通じる道。江戸時代には北陸街道と呼ばれるが、この時は加賀の金沢から越後の高田まででした。高田から出雲崎・弥彦を通り新潟湊までは北国街道と呼ばれました。また、地蔵堂から西川沿いで新潟湊までの道を北国街道横道・新潟蒲原往来と呼ばれました。現在の国道116号線はこの道にほぼ平行した道路です。そして柏崎からは国道8号線になっています。

注2:三国道は、江戸時代には三国街道といわれ、群馬県高崎市から三国峠を越えて越後に通じる道。この時の主要な街道が現在の国道17号線になりました。

注3:岩代道は、明治初期の名前で、福島県に通じる道。この時の主要な道が現在の国道49号線になりました。

注4:羽前道は、新潟から旧黒川村・旧関川村を通り、米沢市までの道路。明治の初め、置賜県おきたまけんの県庁が置かれていました。現在の国道7号線と関川からの国道113号線です。

注5 :北国街道は、江戸時代、中山道の信濃の追分宿(長野県軽井沢町)から始まり、出雲崎まで北国街道といわれ、この時の主要な道が現在の国道18号線になりました。