[第40話]文明開化は蒲原からも始まる!!長崎仕込みの西洋の生活スタイル

 文明開化とは、明治になり西洋の文化が入ってきて、江戸時代の生活から制度や習慣が変化したことを指します。その内容は、徴兵制度、鉄道、人力車、電信・郵便制度、洋風建築、レンガ建築、ガス灯、官営工場、散髪、洋服、写真、こうもり傘、肉食や牛乳の飲用、学制の発布、新聞の発行、書籍による西洋の紹介、暦の変更などなどいろいろです。

 蒲原に東京などを経ないで、長崎から直接、西洋の生活スタイルを持ちこんだ男がいます。その名は、竹山たむろといいます。彼は、天保11年(1840)、熊森村(旧分水町)生まれ、慶応元年(1865)9月から慶応4年8月まで、幕府の長崎養生所ようじょうしょ精得館せいとくかん戸塚文海とつかぶんかいについて医学を学びました。その間に、西洋料理を味わい、上野彦馬うえのひこまから写真撮影の技術も学びました。

 戊辰戦争。新政府は精得館へ越後出身の医学生がいないか照会します。越後からは、竹山屯のほかに長岡藩医梛野なぎの鎌秀けんしゅうがいました。まさか、長岡藩医を送る訳にはいきません。屯に白羽が立ちます。屯は、直様すぐさま上京、慶応4年8月21日、新政府から軍務官病院診療師を申しつけられ、越後水原府へと出立、出仕します。屯は、長崎を去るに当たり、写真機材一式と現像に必要な薬品を入手して熊森村の実家へ船便で送ります。

 明治2年(1869)4月6日、軍務も一段落、帰宅します。8日丸一日と9日午前中、屯は「写真到ス」のです。1日半の撮影です。被写体の一人が父甫祐ほゆう(写真)です。その後も多くの写真を撮ります。明治5年4月16日、屯は中野村(旧中之島町)の亡妻の父から頼まれて撮影に行きます。同月20日、熊森の村人5人が写真撮影の依頼にやって来ます。午後から晩方までかけて一人ずつ撮りました。兄とおるも撮影(写真)したようです。各地で写真屋が営業する前から、屯は上野彦馬直伝の腕で写真を撮っていました。

 屯は、明治5年3月下旬から人力車で郡内、長岡町へ往診するようになります。また、屯は、イタリア人ミオラが、県令楠本正隆の援助で西洋料理店を開店すると、絶えず後援し、きょうだい知人が新潟へ来れば、「イタリア軒」へと連れていきました。

 兄亨は、蒲原郡内で最も早く断髪します。明治5年3月25日、開業間もない長岡神田町の牛肉店「共和亭」を覗き、10月25日には、往診の帰路、鶏1羽を求めます。

 ここ蒲原の身近に、早くから文明開化を率先実践していた人たちがいたのです。

(請求記号CKBクタ)『西蒲原熊ノ森竹山祐卜亨日記』(請求記号 渡辺517)『香山竹山屯先生追憶之栞』

兄亨の画像
【兄亨(明治5年、屯撮影)】
父甫祐の画像
【父甫祐(明治2年、屯撮影)】
屯の画像
【屯(慶応元年、長崎で撮影)】