[第38話]「僕は則ち遠遊して後に学を博す」吉田松陰の越佐滞在記

 吉田松陰は、長州藩の下級武士の息子として生まれましたが、6歳の時に叔父の養子となって藩の山鹿やまが流兵法師範の家を継ぎました。そして10歳で藩校の教授となり、11歳で藩主に講義したという大天才でした。25歳の時、開国前の日本において、危険を省みず、アメリカ密航を企てた人物でもあります。

 江戸時代の末期、西洋列強の脅威がにわかに日本周辺に迫ってきていた頃に、若き吉田松陰は、清国(当時の中国)がイギリスに敗北したアヘン戦争(1840~1842)の情報を得ました。強大な軍事力を持つ欧米列強によるアジア植民地化の動きが、いよいよ日本のそば近くまで迫ってきたことを理解した瞬間でした。やがて、彼は東北巡遊の旅に出ることを決意します。当時異国船が頻繁に出現すると言われていた東北地方をめぐり、海防の現状を視察しようというものでした。この旅を書き記した日記が『東北遊日記』です。

 約5か月間の旅の中で、吉田松陰は新潟に約1か月滞在しました。この間、何をしていたのでしょうか。

 嘉永4年(1851)12月14日に江戸を発ち、尊王攘夷の地である水戸で多くの水戸藩士と尊王思想を語り合い、会津を経由して新潟に到着したのが嘉永5年(1852)2月10日でした。当初、松陰は1か月も新潟に滞在する気はなかったようです。松前まつまえ(北海道)まで北前船で直行したかったのですが、冬の荒れる海を前に肝心の船が出ません。北前船が出るまでじっと待つことのできなかった松陰は、突如として佐渡への渡航を決断します。佐渡に渡った松陰は、真野御陵(順徳天皇陵)を訪れ、尊王の心を大きくたかぶらせています。また、金山の見学をし、金山で働く人々の過酷な環境に怒りを感じています。佐渡近海にも異国船が出現していることを聞いていた松陰は、春日崎かすがさき(旧相川町の西南海岸にある岬)の砲台にも立ち寄り、異国船の脅威を実感します。松陰はさまざまな事を見聞し佐渡を後にしました。

 その後の旅はどうなったかというと、結局松前への船は出してもらえず、陸路で北上し、さらなる見聞を広めて江戸に戻ります。

 旅行後の松陰は、友人に送った書簡に、東北巡遊によって「雪や浪や野やまたもって気胆を張り才識を長ずるに足れり」とした上で、「人皆曰く、ひろく学んでしかる後遠遊すと。僕はすなわち遠遊して後に学を博す。」と、自分の旅を総括しています。見て、聞いてその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができるのだと確信したのです。この時、吉田松陰、23歳でした。この確信こそが、安政元年(1854)、アメリカのペリー率いる黒船が来航したときに、西洋文化を学ぶためにアメリカ密航を企てる行動へと彼を導いたのかもしれません。

吉田松陰東北遊日記の画像1

吉田松陰東北遊日記の画像2
【吉田松陰東北遊日記】(請求記号E9314‐2‐163)

真野御陵の画像
【吉田松陰が訪れた真野御陵】