[第37話]紫金牛の投機ブームと新潟県の取締り

 紫金牛(やぶこうじ)とは高さ20センチメートルほどの常緑の小低木で、緑の葉に囲まれた中に赤い実をつける可憐な植物です。万葉の昔から祝い事に使用されたと伝えられ、大変縁起のよいものです。寛政年間(1789~1801)のころより、葉変わり物として愛好されたと伝えられており、突然変異で白・黄・桃色などの斑が入ることもあってか、当県を中心に明治28年(1895)、29年に投機の対象としてブームを引き起こしました。

 特に小須戸町こすどまち小合村こあいむら(旧新津市にいつし)は以前から庭木栽培が盛んであったこともあってその中心地となり、「日の司」「天の川」等の品種は、差芽をして根付けをすれば一鉢5円ぐらいになったため、小須戸町では専業の植木屋はもちろん、一般町民までもが家業を捨てて売買に熱中しました。当時、米が一俵5円前後であったのに、一鉢2千、3千円もした「日の司」があったということです。

 明治29年9月、新潟県はこうした事態を「良民社会に害毒を流すもの」として「諭達ゆたつ」を発したため、ブームは一時下火になりました。しかし、同年末から翌年初頭にかけて取締りの手が緩んだのをみて、投機売買が再燃し始めます。このブームは小須戸町・水原町すいばらまち巻町まきまちなどを中心に前回を上回るもので、土地や建物を抵当に入れる者、職業を放り出して売買に奔走ほんそうする者、副業を投げ出す農民、小作権を抵当に金策する小作人など、資産家から小作人までもが投機に熱中したということです。

 ここに至って新潟県は、明治30年1月「紫金牛取締規則」を発布し、一定の業者に限り鑑札かんさつを与え、新潟市西堀通及び西堀前通一帯以外での売買を禁止しました。

 やぶこうじ師等によっては、規則発布の前に一時売買を停止し、表面上鎮静化を装うことで取締りの程度に多少の緩みを付けてもらおうとしたり、またいかに厳重な取締りをしようとも、網の目を魚が潜るように恐れるに足らずと、密売買を計画した者もいたということです。

 結局、この措置によって、投機熱は一気に冷め、取締りの目を逃れて密売したやぶこうじ師等は次々に摘発されました。ただし、この規則も僻地へきちまでは十分に浸透しなかったようで、やぶこうじ師等にだまされて購買した者も多かったようです。

 その後、やぶこうじ師達は団体を結成して、新潟県に対し規則改正の請願を行うなどしましたが、徒労に終わりました。悲惨を極めたのは投機に熱中した人々で、妻子と離別したもの、夜逃げをしたものなどが相次いだといいます。

 それでは、なぜこの時期にこのようなことが起こったのでしょうか。

 明治29年、30年の大水害で、県下の農業、機織はたおりなどの生業なりわいは破綻し、人々は復旧事業で日銭を稼ぐという不安定な生活を余儀なくされました。

 また、同時期に虫害による大凶作と米価の高騰が起こりました。小作農の貧窮ひんきゅう化により地主と小作人の対立が表面化し、県内の社会状況は不安定なものになっていました。

 こういった時期特有の背景や事情なども絡み合い、一攫千金を夢見てお金をやぶこうじ投機につぎ込ませるほどの異常なブームを引き起こしたと思われます。

諭達第9号の画像
【明治29年9月16日:諭達第9号】(請求記号 県治報知257)

県令第13号「紫金牛取締規則」の画像
【明治30年1月31日:県令第13号「紫金牛取締規則」】(請求記号 県治報知264)

注意:明治29年、30年の水害・・・29年は7月21日に県下各地が大洪水となり、25日まで減水しませんでした。特に西蒲原一帯の被害が大きく、その水は新潟市にまで及びました。30年には、7月・8月・9月と3回にわたる洪水があり、白根郷しろねごうでは約36平方キロメートルの収穫が皆無となりました。