[第23話]旧県庁舎に残っていた昭和初期の橋梁写真の謎
当館所蔵「戦前新潟県内各地写真乾板」(請求記号E0906)には、昭和初期に完成したばかりの県内24か所の橋梁写真が残されています。これらの写真は、まだフィルムが普及する前に、ガラス乾板に焼き付けられたもので、旧県庁舎に残されていました。一例として西川橋(新潟市西蒲区、旧巻町)と明月橋(村上市、旧山北町)の写真を、現在の写真とあわせて紹介します。
注意:なお、来館の際にはプリント写真による閲覧となりますのでご了承ください。
【昭和初期の西川橋】
【現在の西川橋】
【昭和初期の明月橋】
【現在も旧道に残る昭和初期の明月橋】
ところで、なぜこれほど多くの橋の写真が残されていたのでしょうか?その謎は、当時の県庁で作成された公文書からうかがい知ることができます。
昭和5年(1930)、生糸価格の下落で始まった昭和恐慌は、米価の急落も招いて庶民の生活に大打撃を与えました。この打開策として、斎藤実内閣のときには、思いきった国の財政支出により土木事業を興すことで、景気回復が図られました。新潟県においても、当時の千葉了知事が県会の演説において県道改修や橋梁架換などの土木事業を中心とした予算を提案しています。橋梁架換は昭和7年~昭和9年の3年間で38か所が計画されました。公文書には、その時の調書や設計図も残されています。
残されていた写真は、この時架けかえられた橋の一部と思われます。おそらく当時の選りすぐりの写真師によって撮影されたものと考えられ、奥行きのある画面は今からおよそ80年前の新潟県内の姿を鮮明に伝えてくれています。
【知事発言要旨と橋梁架換調書】(請求記号H92総財404)
【西川橋の設計図】(請求記号H92総財422)