[第18話]新聞広告の始まり

「精錡水」新潟新聞の画像
【「精錡水」新潟新聞(明治10年4月7日)】

 当館には、新潟県史編さんの際に収集した数多くの複写文書が引き継がれています。新聞もその資料のひとつです。県内各地で発行された新聞からは、当時の国政の動きから一般生活に至るまで、幅広い歴史情報をつぶさに読み取ることができます。新聞創刊当初は政府の公告や会社の決算報告等が主でしたが、時代と共に紙面が拡大され、小説や広告なども掲載され始めます。「新潟新聞(現・新潟日報)」の創刊号には「精錡水せいきすい」という目薬の広告が載っています。「そもそもこの御めぐすりハ美国(米国)の大医より本家岸田氏へ直伝の名方にして世間に有りふれたる売薬の類にあらずすべての眼病に用いてその功あること実に奇妙の良剤なり」とあり、現代にも通ずるような宣伝文句の広告です。この目薬は岸田吟香がJ.C.ヘボン博士から伝授され、製造販売したところ大当たりしたのでした。岸田は「麗子像」で有名な画家、岸田劉生のお父さんです。

 また、この広告の「売捌所」(販売代理店)欄には後に出版社「博文館」を創業する長岡の大橋佐平の名前も見えます。

 明治の中頃には与板出身の醸造技師、中川清兵衛が尽力した後の札幌ビールの広告なども登場、他にもキリンビール、アサヒビールなど今日でもお馴染みの企業広告が続々新聞に登場します。

「札幌ビール」新潟新聞の画像
【「札幌ビール」新潟新聞(明治26年8月5日)】