[第111話]戦後間もないころの中学校生活 ~吉田中学校学級日誌を読む~

 県立文書館には、県内の方より、母校の資料(学級日誌や生徒会誌、修学旅行の記録、卒業証書、周年行事の記念誌など)をご寄贈いただくことがあります。戦前や終戦直後の貴重な記録もあり、読むと当時の暮らしが垣間見えます。

 今回、紹介するのは「昭和25年 吉田中学校学級日誌」(請求番号:E2403-1)です。この日誌は、当時の2年生が日替わりに書いたものですが、先に当時の世情を見てみましょう。

 昭和22年(1947)、教育基本法と学校教育法が公布され、義務教育9年となり、6年の小学校の次に、3年の新制中学校が発足しました。新制中学校はその年の5月発足と定められましたが、市町村にとっては「校舎がない」「そもそも校舎の建築費がない」など課題が山積みの中で、見切り発車することになりました。

 西蒲原郡吉田町(当時)では、5月15日付で町立吉田中学校が発足しましたが、吉田小学校の校舎の中に併設されました。戦後のベビーブームはすでに始まっており、この時期誕生したこどもたちが中学生に進級する昭和30年代初頭までに、中学校の新校舎を新設しなければなりません。終戦直後、財政が極度にひっ迫する中で、行政や議会、地元有志は知恵をしぼります。まず、組合立中学校の創設が模索されましたが、挫折。つづいて昭和29年(1954)、吉田町・米納津(よのうづ)村・粟生津(あおうづ)村が合併して新吉田町が発足すると、町会議員・教育委員らで構成された吉田町教育施設研究会は、吉田中学校・米納津中学校を統合して、町内の法花堂(ほっけどう)地区に新たな吉田中学校を創設することで問題の解決を図ります。しかし、この動きに米納津地区の人々は、通学に不便だと反発。昭和33年に、新吉田中学校が発足した後も、およそ4年間、有志によって米納津中学校で授業が続けられました。

 上記のような、まさに混とんとした時期に、吉田中学校2年生は、どのような学校生活を送っていたのでしょうか。「学級日誌」は、クラスの「班長」になった生徒が交代で書きました。班長(8名)で会議し、その中から級長、副級長、日誌の担当を選んでいたようです。

 「今日は校長先生の訓話。さっぱりわからなかった。」「今日は一人も、屋根に上ったり、十分休みに野球をしたり遊んだりし(ママ)る者がなくてよかった」「班長会議を開いて、各委員をきめた。僕は図書委員である。非常にいやだ。が、きまった以上がんばることにする(下線部はボールペン太字)」などなど、時折本音が噴き出します。また、「先生からおしいてもらった」「おぼいられない」などの、「い」と「え」の逆転は、新潟方言の影響でしょうか。また、「職業」という科目があること、「英語・家庭・図画・農業・商業」が選択科目であることは、卒業後にすぐ就職した当時の状況を反映しています。また、「田植え休み」(5月最終週の一週間)や、「いなご取り」(10月3日・6日の1・2時間目)など、生徒の多くが農家だったからであろう、行事も目を引きます。また、この年5月の遠足は、東蒲原郡鹿瀬(かのせ)町(当時)の昭和電工の工場見学でした。

このように、学校行事に取り組む生徒の様子から、当時の世相が透けて見えます。生徒たちが書いた(字の美しさに驚きます)、一年間の記録は県立文書館で閲覧できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〇資料:「昭和25年 吉田中学校学級日誌」(請求番号:E2403-1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五月二十三日 火曜 天候 晴

「校長先生からお話があった。小學校の教室には絶対に行かぬようとの話であった。私達が小學校へ遊びに行ったりすると、小學校の何かがなくなったりした場合に私たちは大へん悪い気をしなければなりません。」

*新学制が発足して三年目。まだ校舎が小中併設だったことが伺える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十月六日 金曜 天候 曇

「今日はいなご取りはあるかないかわからず、家の前でうろうろしていると原田先生がいらっしゃってあるとおっしゃったので仕卓(ママ)をして行った。」

*生徒は、町内ごとに分かれて蝗をとったようである。その後登校し、3時間目から授業となった。

 

〇参考文献:『吉田町史』通史編 下巻 (2004年)