[第113話]引継ぎ目録に見る戸長のお仕事

 明治5年(1872)4月9日、庄屋・名主・年寄などの名称を「戸長(こちょう)」と改める太政官布告が発せられ、各町村を取りまとめる戸長が置かれました。その直後の9月8日、新潟県は町村の役人を解任し、複数の町村からなる「組合」を設け、組合の長として新たに「用掛(ようがかり)」を置き、戸長は複数の組合をまとめることとされました。
 戸長ははじめ「戸長役場」と呼ばれた自宅や寺院等で執務していました。では、どのような仕事をしていたのでしょうか。
江戸時代、町村の役人は役職を交替する際、執務に必要な書類の目録を作成し後任へ引き継ぎました。こうした慣行は、明治時代に入っても  同様でした。そうした目録から、戸長の仕事の一端を垣間見ることができます。 一例として梶村(上越市吉川区)の引継ぎ目録を紐解いてみましょう。
 明治6年(1873)6月、柏崎県が新潟県に編入されました。柏崎県は組合・用掛を設けず、戸長が各町村の行政を担当していましたが、新潟県と同じ制度に組み入れられました。柏崎県の管轄下にあった梶村と大瀧新田(上越市吉川区)の大瀧甚十郎が担っていた戸長の仕事は、新たに設けられた「壱番組用掛」に引き継がれました。この時引き渡された書類の中に、「壬申御割付」があります。壬申御割附とは明治5年(1972)の年貢割付状です。明治に入ったとはいえ、村はまだ年貢で税を納めており、戸長と用掛は江戸時代の村役人の面影を残していました。
 その後、明治11年(1878)に郡区町村編制法が公布され、明治の自治制度の基礎ができました。しかし、明治14年(1881)からの松方デフレによる町村の疲弊で早くも制度の改訂を迫られます。明治17年(1884)に、政府はさらに多くの町村を連合させ、梶村には23か村を管轄する戸長役場が置かれました。
 この時、新たな戸長に引き継がれた書類は、272冊にのぼります。明治維新の三大改革と呼ばれる地租改正、徴兵制、学制に関するものが大半を占める中で、戸長の仕事を特徴づけるものとして印影簿があります。明治11年(1878)に証明書への実印の捺印が全ての人に義務づけられたことで、江戸時代に家の当主のみに許されていた印章が個人に認められていました。印章を持つ人は、印影(紙に押したもの)の役所への提出が義務付けられ、戸印影の管理と実印との照合が戸長の執務の一つとなりました。地租、徴兵、学校とあわせて、戸長の仕事は村の管理だけでなく、個人の管理へと移りました。近代的な制度の実務を担う政府の役人へとなるにつれ、職務は増える一方でした。
 そして明治21年(1888)4月、市制・町村制が公布されると、組合と戸長は廃止され、町村の長は町村長となりました。これに合わせて市町村合併が実施され、梶村戸長役場が管轄していた村々は、新たに明治村(上越市頸城区)、中吉川村(上越市吉川区)、旭村(上越市吉川区)に編成されました。
 この時、新しい村に引き継がれた書類は、458冊に膨れ上がっていました。特に、小学校の運営に関する書類が増えています。この背景には、明治16年における小学校「明道(導)校」の新築、明治18年に小学校の学区再編成があり、地域の初等教育の形が整い始めたことがあります。戸長は学校運営のための資金徴収、徴収した資金の運用の責任を負っていたのです。このほかに、机やイス、風呂敷や土瓶といった物品も記載されおり、事務引継はさながら役場の引越しともいうべきものでした。
 一方で、引き継がれなかった書類は戸長の家に残ることもありました。これらは新たな町村には不要とされたものでしたが、地域の人々の生活に欠かせないと考えて残されたものでした。
 当館には戸長の家に残った文書が多数所蔵されています。かつて不要とされた文書は、現代では地域の歴史を知る貴重な役割を担っているのです。

梶村大瀧新田諸書類戸長      公共書類目録 明治17年(1884) 元梶村始十九ヶ村戸長役場
用掛渡方扣帳 明治6年(1873)  〔請求記号:F86-8751〕     事務引継受領証 明治22年(1889)
〔請求記号:F86-9441〕                      〔請求記号:F86-10893〕