[第105話]村での裁判-稲を盗んだのは誰だ!?-

 もし、現代日本に生きる私たちの周囲で窃盗事件が起きたとき、私たちはまず警察に通報します。然るべき捜査機関が捜査を行い犯人を捕らえ、その結果は司法が判断を下します。日本は私刑を禁止しているため、たとえ犯人の目星がついていたとしても、警察や裁判官以外の人間が個人を拘束したり、罰を与えたりすることはできません。

 近世において、江戸では町奉行が警察と裁判所の機能を併せ持っていましたが、時代劇の主役にもなった大岡越前や遠山左衛門尉景元※が活躍したのは江戸市中に限ってのことで、地方には警察官や裁判官に該当する職業はありませんでした。火事や傷害・殺人という重大な事件が起こったときは公的機関である幕府や藩の役人が検分し処罰しますが、それ以外の窃盗などの軽微な犯罪は村内で解決することが多くありました。

 しかし、警察や裁判所という組織が無いなか、村ではどのように犯人を見つけ、処罰していたのでしょう? 文化6年(1809)に、頸城郡梶村(現上越市吉川区)で起こった稲の窃盗事件を見ていくと、小さな村社会における犯人の選出方法と処罰を窺い知ることができます。

 文化6年9月15日の夜、波助は自分が干していた稲6束余りがなくなっていることに気づき、村役人に届け出ました。村役人の立会いのもと、稲干し場や家の中まで確認しましたが見つからず、なんと波助以外にも稲がなくなっている人がいることが判明しました。大切な稲が盗まれたことを重く見た梶村の人々は翌日の夜に集会を開き、ある証文を取り交わしました。それは以前からの取り決め通り、怪しいと思う人物の名前を書いた札を投票し、書かれた名前の多かった人物を犯人として村から追放する、その結果に不平を言わない、という証文です。このような方法は入札(いれふだ)といい、近世によく見られます。現代のように犯罪捜査の専門家がいるわけでもなく、窃盗の現場を目撃した、というような証拠がない場合は、村人の投票で犯人を決めていました。この件では投票した札が残っています。村役人と病欠の村人一人を除いた全員が投票し、A氏12票、B氏18票、C氏8票、D氏・E氏2票、ほか5名に1票ずつ投票されました。一枚の札に複数人の名前や、女性の名前が書かれた札もあり、村内の人間関係が透けて見えるようです。投票の結果、B氏が稲の窃盗犯とされたと思われますが、本当に村追放になったかどうかは資料が残されていないためわかりません。しかし、耕作をして年貢諸役を納める人手を村として減らしたくはないということもあり、多くの場合は家族や親類・五人組、旦那寺などが保証人となって関係各所に詫びを入れ、村に留まれるようにしています。おそらくB氏も同様の措置が取られたのではないかと思われます。

 怪しいという疑いだけで犯人を決めてしまうというのは現代を生きる私たちにとっては理解しがたい感覚ですが、村の生活を維持するためには、形式的に犯人を決めるという措置が必要だったのでしょう。近世から近代へと時代が移り変わっていくと、警察組織や法律が整備され、このような村うちの裁判は姿を消していきました。

※大岡越前…享保2年(1717)から町奉行を19年勤め、小石川養生所・町火消制度の設置、江戸の物価対策などに尽力した。

 遠山左衛門尉景元…天保の改革期の町奉行。通称、金四郎

 

 

F86-81:『村中取極申證文之事(稲紛失につき村中入札の取極)』文化6年