[第104話]羽越線開業にかける思い-山際敬雄と加藤勝弥-

 新潟県の新津から日本海沿岸を経て、秋田県秋田市に至る鉄道羽越線(現在の羽越本線)が全通したのは大正13年(1924)、今から約100年前のことです。この路線の開業は、沿線の秋田・山形・新潟3県民の悲願でしたが、新潟県出身の政治家でその実 現に尽力した人物といえば、衆議院議員の山際敬雄(やまぎわよしお)と加藤勝弥(かとうかつや)があげられます。

 山際敬雄(1872~1934)は、新潟県の自由民権運動のリーダーとして活躍した山際七司の息子で、明治41年(1908)に行われた第10回衆議院議員選挙に当選し、明治45年に開かれた第28回帝国議会衆議院本会議では、10名の同志と共に、「羽越沿岸鉄道建設ニ関スル建議案」を提出しました。ここでは新発田-村上間の着工が決まったものの、いまだ建設の目途が立っていない村上-秋田間の早期着工を訴えています。(注1)

 加藤勝弥(1854~1921)は山際敬雄より一世代前の人物で、国会開設前から県会議員として活動し、自由民権運動にも熱心に参加していました。若いころには敬雄の父、七司とともに高田事件(注2)で逮捕され、獄中生活を余儀なくされたこともあります。また敬虔なキリスト教徒であり、新潟に北越学館というキリスト教系の学校を設立した人物としても知られています。出身は山形県との県境に近い岩船郡八幡村板屋沢(現村上市)で、ここは羽越線の沿線に当たります。衆議院議員として東京を拠点に政治活動していた加藤が、郷土の人々ために尽くしたいとの思いから新潟に戻ったのが明治32年(1899)のことでした。この年から再び新潟県議として活動を始め、県会において、明治32年・33年・38年・39年と、4度にわたり羽越線の急設を訴える建議を同志と共に提出しました。明治45年(1912)、加藤が第11回衆議院議員選挙に出馬し、国政の場に戻ったのも、衆議院議員としての方がより強く政府に羽越線の速成を訴えることができると考えたからでしょう。この選挙に出馬しなかった山際敬雄に代わり、新潟県の代表として、羽越線はもとより、のちの上越線や飯山線の建設を訴える建議を他県の議員と共に提出しています。(注3)

 大正4年(1915)、鉄道敷設法が改正され、羽越線の村上―秋田間が第一期線に編入されました。これにより村上-秋田間の線路建設が決まりました。長年の訴えがようやく実を結んだことになります。その後9年の歳月をかけて工事が行われ、大正13年7月に羽越線が全通します。しかし、加藤自身はその完成を見ることなく、大正10年に亡くなりました。

(注1)越後佐渡ヒストリア第81話参照

(注2)山際七司、加藤勝弥を含む自由民権家41名が高田警察署によって逮捕された自由民権運動弾圧事件(明治16年3月20日発生)。

(注3)大正2年第30回帝国議会衆議院議事速記録第16号ほか

 

明治45年、羽越線新発田-村上間の建設予算が計上されたことに対し、岩船郡八幡村(現村上市)村長板垣宇平太から代議士山際敬雄に贈られた感謝状(E1415-9833)

 

大正13年8、9月、新潟市白山公園で開催された羽越線全通記念博覧会の絵葉書(F74-1437-9)