[第103話]文書にみる印章使用の歴史

 庶民による印章の使用は、江戸時代に広まりました。以来、日常的に印章が用いられ、書類作成や売買契約の際などには捺印が必要とされてきました。しかし現在、行政のデジタル化・効率化の一環として「脱ハンコ」が進められています。印章の歴史にとって大きな転機を迎えている今、改めて印章使用の歴史に目を向けてみます。

 庶民の印章使用は戦国大名の印判状に触れたことで始まり、全国的に広く印章を持つようになるのは江戸時代初期の寛永期(1624~1644)とされています。この時期に五人組帳が作成され、捺印がなされました。五人組帳は、領主が百姓を把握するための印鑑登録台帳としての役割も果たしていました。寛文期(1661~1673)には宗門人別改帳の作成が命ぜられ、村ごとに毎年作成される帳面に家の当主の捺印がなされるようになりました。印章の形には、丸いもの、四角いもの、楕円形のものなどさまざまです。なお、江戸時代において庶民は朱印の使用が認められず、印影は黒色のみとされました。

 江戸時代には印章を持つことができる者は原則として一家の当主に限られていたため、当主以外の者は捺印できないか、当主の印章を代用して捺印していました。資料1は、天保12年(1841)正月の「取極之覚」と題した博奕諸勝負を行わないという誓約書で、現在の長岡市域のものです。村の百姓のうち15歳以上60歳までの男子60人全員が捺印しています。最初の卯之助・初太郎・仁太郎の3人の印影は同じものです。次の彦右衛門・吉治郎・彦太郎の3人の印影も同じです。このように、印章は家の当主が持ち、子どもなどは当主の印章を押していることが分かります。

 さて、幕府が倒れ、明治時代になると印章の扱いはどのようになったのでしょうか。新政府は、明治元年(1868)に庶民への朱印の使用を認めました。また、明治3年(1870)に苗字の使用を認め、明治8年(1875)には苗字の使用を義務づけました。このことにより、苗字印による朱印の捺印に切り替わっていきます。  

資料2は、明治9年(1876)7月21日付けの「示談済口御届書」です。この綴の表紙に「桜井」という朱印があり、同じ綴中の明治10年(1877)5月の「官山拝借願」(資料3)を見ると、「山本」という黒印や「高林」という朱印があり、朱印・黒印が混在しているとともに、苗字印が使用されています。この資料は、いずれも現在の魚沼市域のものです。

 資料4は、佐渡における明治15年(1882)1月16日付けの「金子借用之証」です。すべての印影が朱印に変わっており、朱印の普及定着のようすがうかがえます。

 以上のように、庶民の印章使用は江戸時代に広まりましたが、この時代における印章は家を識別する役割を果たし、個人を識別するものではありませんでした。また、印影は模様を表すものが多く、苗字を表す文字印は見られませんでした。明治時代になると、苗字と朱印の使用が許され、以後は苗字を刻した印章の個別所持が普及し、現在に至っています。

 さて、「脱ハンコ」が進められているデジタル社会の中で、印章の使用は今後どのように移り変わっていくのでしょうか。

 

資料1 天保12年(1841)正月「取極之覚」記名捺印箇所(F6-ST-815)

 

資料2 明治9年(1876)7月21日 「示談済口御届書」(F53-6858-1~3)

 

資料3 明治10年(1877)5月 「官山拝借願」記名捺印箇所(F53-6858-1~3)

 

資料4 明治15年(1882)1月16日「金子借用之証」(E9705-714)