[第102話]越後にもプロ棋士がいた!?-江戸時代越佐の囲碁・将棋事情-

 下の写真は、将棋の棋譜を作成するときの符号です。現在のように升目の位置を数字で表すのでなく、「いろは」から始まり、数字・花鳥風月などが記してあり、現代の棋譜に合わせると、例えば「ら歩」「春ふ」「よ歩」「楓歩」は、それぞれ「3四歩」「7六歩」「2六歩」「8四歩」を表します。江戸時代の中頃までは、このように棋譜を表す方が普通でした(注1)。

 この図が記されている『小将棋駒組伝書』を所有していたのは新潟市の大助(おおすけ)買(ご)(魚卸問屋)片桐家です。片桐家が将棋に携わる様子を直接示した史料は今のところ見つかっていませんが、古い棋書が残されていた背景には、片桐家の人の中に大いに興味を持つ者がいた、また当時の新潟では将棋が盛んであった可能性が考えられます。

 片桐家文書には囲碁棋士の有段者(注1)名簿も含まれており、そこには段位、出身地、どの家元の弟子かなどが記されています。古い棋書やトップ棋士の名簿を所有した片桐家など比較的経済的に余裕がある層を中心に、囲碁や将棋に熱心に取り組む人々もそれなりにいたことが想定されます。

 片桐家が所有していた囲碁名簿をつぶさにみていくと、文政年間(1818~30)に各家元が認定した段位が記され、越後・佐渡出身者の名前も見つけることができます。なかでも現代のプロと比較しても遜色のない実力があるといえる五段に越後の稲垣太郎左衛門の名が見えるのは驚きで、他にも4名の越後・佐渡出身者の名前が見えます。現代のように囲碁を学ぶツールが豊富とはいえない時代に、どのような方法で腕を磨いたのでしょうか。稲垣太郎左衛門は、長岡藩の家老であった人物と考えられます。当時の囲碁有段者は、江戸在番の武士が大変多いのですが、様々な職業・境遇の人々も含まれており(例えば名簿に記されている上手=七段、安井知得は伊豆の漁師の出身と言われている)、活躍しています。

 囲碁・将棋に関わる史料は決して多いとはいえず、普及の様子はまだまだ研究の余地がありますが、忙中閑を楽しみ、中には才能を発揮して大いに名をあげるなど、様々な形で囲碁・将棋とふれあう越後・佐渡人の様子をうかがい知ることができるこれらの史料は大変貴重であるといえます。

 

(注1)

増川宏一『将棋の歴史』

(注2)

江戸時代囲碁の段位はプロとアマチュアの区別はなく、七段(上手、当時のトッププロ)に三子(予めハンデのために石を置いてから勝負を開始する)の実力がある者が初段と認定された。この名簿は文政年間の有段者を示している。

 

         【小将棋駒組伝書】(請求番号E1015-167)

 

      【囲碁有段者名簿】(請求番号E1015-367)

     上手 本因坊(11世元丈)などの名前が見え、井(井上門)五段 越後 稲垣太郎左衛門の名も見える。