[第101話] 自宅が郵便局?明治はじめの郵便取扱人

 いま私たちは郵便局に行けば切手を使い全国どこへでも一律の料金で手紙を出すことができます。しかし、江戸時代までの飛脚による手紙の運送では、距離により料金が異なりました。この切手や全国一律料金など、現在の郵便制度の基礎ができたのは明治時代です。明治初期の郵便事業は従来の飛脚運送システムを土台としながら、国営事業として運営されます。江戸時代、公用文書を運ぶのは継(つぎ)飛脚(びきゃく)といい、幕府が行政上の必要から整備・運営した宿駅制度を利用して、宿駅で継ぎ立てて運んでいました。飛脚制度は民間にも普及し、江戸・大坂などの町飛脚を中心に各地に飛脚問屋が設けられ手紙が運ばれました。しかし、明治政府が宿駅制度を廃止したため、公用文書などを運ぶには全国各地に継送りする公的な機関の役人を新しく置く必要がありました。そこで考えられたのが、各宿駅で継立を行っていた人々や名主・庄屋など地元の名士を、郵便取扱役として公的な郵便機関の構成員に組み入れる方法でした。

 明治初頭の郵便取扱役の様子は、明治8年(1875)から19年(1886)に小千谷町の郵便取扱役を担った中町家の資料からうかがうことができます。駅逓頭(えきていがしら)前島密の名で中町清兵衛に宛てた郵便取扱役任命の辞令には、取扱人に任命する旨だけではなく「但(ただし)当分之内其自宅ヲ以郵便局ト相称可申事」とも書かれています。つまり、当分の間は自宅を郵便局と称するように命じられています。この頃の明治政府は財政が極めて窮迫(きゅうはく)しており新事業である郵便制度に回す資金がなく、全国に郵便局を設置することは困難でした。そこで、政府は地元の名士たちに官吏(かんり)(注)として郵便局で働く郵便取扱役の辞令を出します。郵便取扱役に任命された地元の名士たちは官吏としての格式と、わずかな手当を与えられる代わりに、郵便局として 土地や建物を無償で提供することになりました。明治初頭の郵便取扱役は取り扱う郵便の数も少なく、運営経費が手当を上回り、家業がなければ成り立たない役職でした。中町清兵衛が辞職願とともに添えた郵便取扱役の後任を推薦する上申書では「跡役之義ハ当小千谷町岩田善吉ハ平素執務上熱心ニシテ略御規則等モ熟読致シ居且品行方正ニシテ資産モ有之実ニ適当之人物ト被存候間何卒同人ヘ跡役被仰付下置度此段添テ奉上申候」とあり、平素から執務上熱心にして規則等も熟読し、品行方正で資産もある岩田善吉が次の役目にふさわしいと述べています。郵便取扱役を勤めるには仕事に熱心なだけでなく、運営費をまかなう資産をもっていることも条件のひとつでした。

 郵便取扱役としての職務は、請負的性格を残したまま簡易郵便局長として現在まで続いています。家業を持ったうえではないと運営できない明治初めの郵便取扱役でしたが、私財を投げうち郵便局を運営した人々の支えがあったことにもより、現在のように誰もが全国各地に一律の料金で手紙を送ることができる郵便制度が普及しました。

(注)明治憲法下、国家によって特に選任されたもの。現在の公務員とほぼ同義。 

 

【〔辞令〕(五等郵便局詰)】請求記号 F72-772

 

【上申(辞職に付き跡役推挙)控】請求記号 F72-806-3