[第99話]南魚沼の医師・平賀家の人々とスペイン風邪

 かつて南魚沼郡六日町(現、南魚沼市)に、開業医・平賀医院がありました。平賀家は魚沼郡柄沢(現、南魚沼市)の出身で、初代から3代までしゅんあんを名乗り、江戸時代から医業を営んでいました。江戸時代には医師免許を持たずに医業を行うのが普通であり、3代春庵は明治17年(1884)に医師免許を取得しています。明治時代には、自家製造の薬の販売も行っています。

 4代のだいさく(䑓策・大策・大作)は明治4年(1871)生まれで、後に六日町に移りました。䑓作の妻この・・は六日町の旧家今成家から嫁ぎ、2人の間には双子の長男洗一と二男錬二、長女のはせ・・の3人の子がいました。以下、平賀䑓作一家のお話をします。洗一と錬二は明治35年(1902)、はせをは明治44年(1911)の生れです。洗一・錬二・はせをの3人とも尋常高等小学校時代の成績は優秀で、表彰されています。また、天然痘予防として種痘の接種も受けています。

 長男洗一は平賀医院の跡取りとしての期待を一身に背負い、大正4年(1915)に県立長岡中学校(現、長岡高等学校)に入学しました。長岡中学校でも優秀な成績を収め、学年席次は119人中5番ほどでした。当時はまだ上越線が開通していないため、寄宿舎生活を送りました。毎月の金銭出納簿には細かな記載があり、洗一少年の几帳面な性格がうかがえますが、支出品目の中には月謝・舎費・教科書代・文房具代などのほかに花火見物代・活動写真見物代等もあります。長岡中学校時代の洗一のものと推定できる授業ノートが残っていますが、洗一の細部の描写力は見事であり、その力は平賀医院5代目として医療を行う上でも大いに役立ったことでしょう。

 洗一へは、母からの手紙が頻繁に届きます。お金が必要の時は急にではなく前もって知らせてほしいということや、近所の老人が腎臓炎で亡くなったことなどが折に触れて知らされています。大正7年(1918)5月の手紙には、「はせをは毎日元気に登校し、書き方で二重丸をもらいました。大雪のため家が傷み、庭木などが折れてしまい、東京にいる錬二が病気にかかるなど、出費がかさんで困ります」というような手紙もあります。

 さて、この年世界中に大流行したスペイン風邪が8月から日本国内に広がり始めました。11月初めの母から洗一への葉書には、「はせ子(はせを)も昨夜より発熱激しく困り入り候。其許そこもと(あなた)も悪性感冒にかかりなられ候様子知らせにて驚き入り候。玉子でも牛乳でも果物何でも食べたいものを取るべし」と記され、病状を案ずる母の気持が伝わってきます。11月末の母からの葉書には「当町(六日町)及び近在村々に悪性感冒が大流行」という近況が伝えられました。

 大正8年4月の母からの手紙によると、「当地(南魚沼)は又悪性感冒再流行にて、先よりげきれつ(激烈)にて一家ぜんめつ(全滅)の処が何軒もこれある始末」などと、スペイン風邪が再流行し、猛威を振るっている様子がうかがえます。

洗一の魚類内蔵スケッチ

【洗一の魚類内蔵スケッチ】(請求記号E9501-743)

スペイン風邪再流行を伝える大正8年4月の手紙

【スペイン風邪再流行を伝える大正8年4月の手紙】(請求記号E9501-594-58-2)

平賀家系図