新潟県全般に関する相談:Q4

Q4
質問 新潟県の地域区分が上越・中越・下越となっている由来は何か。
回答

新潟県の旧国名は越後国ですが、これらの旧国名は古代律令体制下で定められたものです。律令制下にあって地域の起点となるのは天皇の都城で、現在の京都市になります。そのため上・下で表現される地域区分は京都に近い側が上、遠い側が下と使われたようです。(前、後も同様。例えば、北陸の地域名が「越」で、京都に近い側から越前・越中・越後とされた。)

越後国も京に近い側を上越後、遠い側を下越後と呼んで(上郡・下郡という表現もあったようです。)、その省略表現として上越、下越という呼び方が生じたと考えられます。上越後と下越後の境界がどこであったかはわかりません。中越後という地域名はなかったようですが、上越後と下越後の中間地域という意味で中越という地域区分が使われるようになったようです。現在でも上越と中越、下越と中越の、市町村の地域区分に分野による差異があるのは明確な区分がなかった名残かもしれません。

古来、自然地形が境界とされることが多いですが、文献史料上、「米山以北」「阿賀(揚)北」という表現が見られますが、米山と阿賀野川が越後国にあっては境として強く意識されていたことが伺えます。一方で近世までの越後平野は信濃川の流路が安定しない低湿地帯で、明確な境界として意識されるランドマークが定まらなかったので、越後平野部に境界意識(中越と下越の境)が定着しなかったのかもしれません。

参考資料