〔第15回解読文・解説〕
解読文
解説
井沢博輔が浪人したため流浪の身となった常野(おきん)でしたが、翌年には、藤原雄蔵という井沢博輔の知人のもとに身を寄せていました。そして、弘化元年(天保15年、1844)12月、飛脚金七の迎えで、常野は故郷に戻ることになります。博輔自身は、常野(おきん)の迎えが着たことに随分と驚き動揺したようですが、ともかく常野にとっては、5年ぶりの帰郷ということになります。
さて、一方の博輔ですが、その後、なんとか奉公先を見つけたようで、間もなく生活も成り立つようになったようです。(今回のテキストには「平造」と出てきますが、博輔が再就職後に改名したものです。)そして、もともと常野に未練のあった博輔ですので、早速再縁の申込をしたようです。
しかし、今回のテキストによれば、林泉寺側は不承知であったことがわかります。これまでのことを考えれば身内としては、「もう勘弁してくれ」というのが正直な所だったでしょう。結局、平造の実家、蒲生田村庄屋井沢治郎右衛門が常野を引き取ることによって再縁は実現し、常野は、この年の内に再び江戸に登っています。
この後、2人は、別条無く暮らしていたようです。嘉永元年に弟義せんが江戸で亡くなったときも、江戸で色々面倒を見ている様子が、残された書状から読み取れます。
ところで、常野は、弘化3年(1846)6月21日、江戸に着いたことを林泉寺及び井沢治郎右衛門に手紙で報告していますが、その手紙に「遠山内、おきん」と記されており、興味を引かれます。この前後の井沢平造の書状にも「遠山左衛門尉内、井沢平造」と記されています。平造の再就職先が、かの有名な「金さん」こと南町奉行遠山左衛門尉景元だったのには全く驚きであります。
資料請求番号:E9806-2019