「生きていくこと」・「死んでいくこと」の意味

第39回(令和元年度)

全国高校生読書体験記コンクール県入選

小林楓河さん(新潟県立高田北城高等学校)

二〇一六年五月の終わりに祖父は亡くなった。祖父は若いときから病気がちだった。入院はいつものことだからとあまり心配はしていなかった。しかし私と祖父の別れは突然やってきた。その日学校だった私は、迎えに来た母に連れられ危篤の祖父の元へ急いだ。ベッドに横たわる祖父に駆け寄り、じいちゃんと声をかけたが反応はない。そっと祖父の頬を触ってみた。人は死んでしまうとこんなに冷たくなってしまうものなのかと驚いた。祖父は何か別のものに変わってしまった。私は悲しかった。大切な人の死はとても辛い。死ぬ、ということはその人のすべてが自分の目の前から突然消えてなくなってしまう。二度と会うことはできない。私は今まで人の死なんて別の世界の出来事だと思っていた。考えても分からないことだからだ。だけど祖父の死によりそれは私の世界に入り込んできた。

今年で祖父が亡くなって三年が経つ。六月には三回忌法要を行った。私はこの春高校生になった。祖父が亡くなったあとに祖母から聞いたあの話を思い出した。当時中学生だった私は祖父とあまり話さなくなっていた。そんな頃に祖父は亡くなった。祖父が亡くなったあと、祖母に高校生になった私の姿を見るために病と闘い頑張って生きていたと聞かされた。祖父の気持ちも知らずに私は忙しいことを言い訳に自分のことだけを考え生活していた。もっと祖父と向き合うべきだった。

私は祖父の死で「生きていく」「死んでいく」ことについて考えるようになっていた。そのヒントを私に教えてくれた一冊の本がある。

ある夏の日、三人の少年達がその中の一人の少年の祖母の死をきっかけに死に興味を持ち始める。少年達は人が死ぬ瞬間を見てみたいという願望にとらわれた。そして一人暮らしのおじいさんが死ぬその瞬間を見届けるために観察を始める。なんだかとても不謹慎な始まりの本だ。しかし、いつしか少年達はおじいさんにとって大切な友達に変わっていく。そして、夏が終わりに近づいた頃おじいさんは死んでゆく。少年達はおじいさんの生と死から大切なことを学び、人として大きく成長し、未来に向かって頑張っていこうとする物語だ。私はこの本から「生と死」の役割を教えられた気がする。

私は祖父が生きているとき、何かしてもらうことは当たり前だと思っていた。感謝の気持ちがなかったわけではない。でも本当に感謝の気持ちを持つようになったのは祖父が亡くなってからだ。失って初めて祖父の存在の大切さに気づいた。当たり前すぎて私はそのことになかなか気付くことができなかった。でももう伝える手段はない。いなくなってからでは遅いのだ。だから私は思う。祖父は死ぬことで家族の大切さを私に教えてくれた。また、祖父の死で私は、人生はある日突然終わりが来ること。私達は限りある命で今を生きていることに気付かされた。そして生きていられることに感謝し今この一瞬を大切に生きていかなければならないことを教えられた。

この夏三年ぶりにこの本を開いてみた。今の私の心にある言葉が訴えかけてきた。「死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんな何かを見つけたいとぼくは思った。そうでなくちゃ、なんのために生きているんだ」私はこの言葉にはっとした。大切なことを忘れていたからだ。「死んでもいい」と思えるほどの何かを見つけるために、これからは自分がどう生きたいかを真剣に考えてみようと思う。与えられた人生は一度きりだから。

私は思う。「死んでいく」とは生きていく人にたくさんのことを教え、伝え、大切なことを気付かせ、そしてこの世をまかせ去っていくことだと。そして「生きていく」とは亡くなっていった人の生き方や考え方を心に刻み、いつ死んでも悔いが残らないように精一杯生きていくことではないか。生きている以上誰にも必ず死は訪れる。だから一生懸命生きていかなければいけない。

このエッセイに関連する本