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第70話 先輩のアドバイスが一番!-長善館塾生への進路指導-

 

 天保4年(1833)、粟生(あおう)()村(現燕市)に鈴木文臺(ぶんたい)によって漢学塾が創設され、江戸から明治へとすべてが大きく変革していく時代に、明治45年(1912)まで存続しました。千余人の人材を世に送り込み、政界・官界や地方発展に尽力した人々を数多く輩出した長善館です。

幕末以来、長善館の塾生を含む多くの若者が最新の洋学に基づく教養や職能を求めて都市への遊学(注1)を望みました。長善館2代館主となった鈴木(てき)(けん)は、漢学に固執することなく時代に応じた(かたよ)らない学習を塾生たちに求め、多くの塾生の遊学をバックアップします。遊学先で最も多かったのが東京でした。しかし、惕軒には東京への遊学経験がなかったこともあり、遊学する塾生への進路相談を既に上京している先輩の元塾生に協力してもらっていました。

 明治10年(1877)、当時塾生だった渡邊正家は、惕軒に東京への遊学を相談し翌年遊学を果たします。そして明治12年(1879)、「このたびは、長谷川(たい)先生への紹介状を書いていただきありがとうございました。」と惕軒の紹介状を持って先輩の長谷川泰に面会に行ったことを惕軒に報告しています。

長谷川泰は、幕末に長善館に在籍し、のちに上京してドイツ医学を学びました。明治9年(1876)、西洋医学を学んだ医師の早期育成のため日本医科大学の前身となる「済生学舎」を設立し、日本の近代医学発展に尽力した人物です。当時東京府病院長をしていた長谷川泰は、医者を志し上京した渡邊に対し、「東京府病院には外国人医師が2人いるが、特にマンニングというイギリス人医師は外科医として非常に有名である。彼のもとで3年も勉学に励めばきっと良い結果を得られる」とアドバイスをしてあげたことを惕軒に書簡で知らせています。

 学生にとって親や教師の教えはありがたいものですが、同じ内容であっても自分と同じ学舎(まなびや)でかつて勉学に励んだ先輩からの言葉のほうが重みを感じ素直に受けとめることがあります。同郷であることや先輩後輩の関係は普段から気にしたことがなくても堅い絆でつながっているように思います。

明治22年(1889)、長善館は明治政府から刈羽の三餘堂(さんよどう)と並んで北越文教を振興した「北越の双璧」との賞賛を受けます。その要因のひとつには、塾出身者の繋がりを大切にした館主惕軒の教育者としてのきめ細やかな指導方法があったのではないでしょうか。

 

(注1)故郷を出て、他の土地や国へ行って学問をすること。

       【長善館門人姓名禄】(請求記号E9306-172-3)


    【長谷川泰より鈴木惕軒(健蔵)への書簡】(請求記号E9306-392-3)