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新潟県立文書館

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[第65話]信濃川分水、江戸時代の見果てぬ夢

 

 江戸時代、信濃川は、洪水・破堤が65回余あったといわれています。洪水になると、家、田畑の被害だけではなく、人命が危険に(さら)されることもありました。それだけではなく、越後平野は土地が低いため、洪水により溜まった水はすぐには引かず、稲などの作物が腐ることがたびたびありました。このような土地を水腐地(すいふち)といい、水腐地が広がる信濃川中・下流域の人々には洪水の害から逃れるため、信濃川の分水掘割工事が必要だとの考えがありました。

 寺泊町の二代目本間屋数右衛門は、寛政元年(1789)に信濃川掘割願を幕府に提出しました。調査に来た幕府役人は、一旦は計画を認めることを関係する村々の役人に伝えました。ところが、この願いは地蔵堂町(燕市)周辺村々の願う治水ではなく、新田開発を目的としていることが分かったため、反対の声があがり、計画は実現しませんでした。

 当文書館には、幕末の安政二年(1855)10月付けの、信濃川分水工事の願書の写しが保存されています。差出人は、江戸本銀(もとがね)町(東京都中央区)の町人長兵衛、寺泊町の大肝煎(おおぎもいり)などです。

内容は、「信濃川は日本一の大河ですが、長岡より下流では大川津(おおかわづ)付近で、西川・中ノ口川に分かれ、平島(新潟市西区)で合流し新潟で海に入ります。三つの川の流域の村々には水腐地がたいへん多く、大雨が降り洪水になれば堤防がたびたび切れ、家や田畑が流されることもあり、人々の(うれ)いが増すばかりです。以前にも、分水を掘り割り、新田開発を行おうと考えた人たちがいましたが、許可が下りませんでした。自分たちも分水を掘り割り、新田も開発したいのです。そうすれば、越後は水害から免れ、他国に稼ぎに行っている人たちも戻ってきて、農業に励むことができます」というものです。洪水の被害に苦しむ人々の様子を述べ、分水の必要性を訴えています。翌年、彼らは幕府に呼び出され尋問された後に、再度願書を出しました。しかし、結局、この願いも村上藩や三条町の反対により、許可されませんでした。

 この信濃川分水掘割計画は、地元民だけではなく、江戸の人も巻き込んだ計画でしたが、実現しませんでした。目的が新田開発であったからです。

この二つの事例とも、目的に新田開発があることで、反対運動が起きています。なぜかというと、新田開発により田が増えると、周辺の村々では用水が不足する危険がありました。そのため、用水確保は村々にとって死活問題であったのです。

 このように、たび重なる洪水の中で、繰り返し出される分水工事への切なる願いの一方で、村々の権益を守るための強固な反対運動や対立が繰り返され、切なる願いの共有ができませんでした。幕府もまた、最後まで分水工事を許可しませんでした。

 江戸時代の見果てぬ夢は、明治へと引き継がれていきました。



「越後国信濃川分水堀割願書写」 【請求記号 E1012-88 】


「越後国信濃川分水堀割願書写」 【請求記号 E1012-88 】