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[第52話]虫歯のため欠席します ~西洋軍備導入と領民~

 

 天保12年(1841)、清国(当時の中国)とイギリスが対決しているアヘン戦争(1840~1842)の情報を得た江戸幕府は、強大な軍事力を持つ欧米列強によるアジア植民地化の動きが日本周辺に迫ってきたことに危機感をもち、とりあえずの対応策として長崎から江戸に西洋砲術家を呼びました。長崎奉行所鉄砲方役人の高島(しゅう)(はん)です。彼は5月、江戸郊外の徳丸(とくまる)(がはら)(現東京都板橋区)で大砲術演習を行いますが、放たれた西洋の製造技術で製造された大砲の轟音(ごうおん)に、集まった江戸の人々は胆をつぶし逃げ出したといいます。その驚きの有様は、演習の行われた徳丸原がそれ以来、高島様の平野、「高島(たかしま)(だいら)」という名前になってしまったことからもうかがいしれます。


 江戸時代を通して受け継がれてきた和流砲術は、個人の銃砲を撃つ技量をいかに磨き上げるかという、いわば武芸としてのものでした。しかし江戸郊外での大砲術演習以降、個人の技量よりも集団としていかに効率よく銃砲を活用していくかを目的とする西洋流砲術の導入が、次第に諸藩へも拡がっていきます。
新発田藩ではペリー来航直前の嘉永4年(1851)に始まりました。この年、和流砲術の師範であった新発田藩士佐治(さじ)(まご)兵衛(べえ)らは、江戸の西洋流砲術の修行に行き、嘉永6年(1853)免許皆伝となって帰藩し砲術の指導に当たっていきます。当館には、免許皆伝の佐治孫兵衛が砲術指導をした目録が所蔵されており、時代の移り変わりが越後にも及んできた一端を見ることができます。



【目録(高島流砲術御出精加火内砲御勝手次第)】(請求記号E9916-1663)

 幕末における新発田藩の軍備強化は西洋砲術導入から始まり、海防の急務に備えるため、領民を兵員として取り立てるようになっていきます。元治元年(1864)、村役人やその子弟からなる部隊が誕生します。「銃隊組」の名で後に戊辰戦争にも参加し活躍するこの部隊は、佐治孫兵衛がその指導にあたりました。


 銃隊組の育成・強化が順調であったかというと、当館所蔵の中蒲原郡新津組大庄屋桂家文書をみるとそうとはいえないようです。慶応3年(1867)9月17日に領主から出された通達の廻状には、「明日、銃隊稽古が行われるので間違いなく出席すること」「久しぶりなので欠席のないように」といった内容がわざわざ書かれています。一方で、領民からは翌9月18日に「4、5日前から虫歯のため歩くこともできないから、全快するまで稽古は休ませてください」という欠席届が出されます。他にも、「稲刈りにて手首負傷」「両足怪我につき」などの理由による欠席届もあり、欠席を願い出る者があとを絶たなかったことがうかがえます。


 江戸時代は、戦うことは武士の役目であって、武士以外の者が軍事訓練を受けることは大きな変化でした。彼らにとってその負担は決して軽くはなかったでしょう。これらの文書からは、時代の変化に対する領民の戸惑いと、領主に対するささやかな抵抗が透けて見えるような気がします。



【急廻状(明日より銃隊稽古につき厳達)】(請求記号E9103-80-46)


【乍恐口上(俊治虫歯につき銃隊稽古猶予願)】(請求記号E9103-80-47)