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[第46話]参勤交代からみる幕末の越後の大名

 

 参勤交代は、江戸幕府三代将軍徳川家光が武家諸法度において定めたものです。大名に対して、一年おきに江戸と自領を行き来することを命じています。しかし、参勤交代の制度は、文久2年(1862)の一橋慶喜よしのぶ、松平慶永よしながらによる幕政改革によって緩和されます。三年ごとに一年間又は百日間の滞在と、期間がゆるめられました。

 紹介する資料は、内容から文久の幕政改革後の参勤交代に関する資料だと考えられます。資料には、戌年、亥年、子年(文久2年~4年)の3年間の春夏秋冬のどの時期に、どの大名が参勤交代をするかが記されています。


 幕末のこの時期、越後には11の藩が存在していました。越後の大名をみると、戌年の秋に与板藩井伊家が、戌年の冬には新発田藩溝口家と高田藩榊原家が、そして子年の夏には村松藩堀家などが参勤交代を行うことになっていることがわかります。そして、定府じょうふ(参勤交代を行わずに江戸に定住を命じられていた大名)の欄には、糸魚川藩松平家、黒川藩柳沢家、三日市藩柳沢家らの名を探すことができます。また、三根山藩の牧野家は、文久3年(1863)に大名になり定府を命じられていますが、この資料が作成された文久2年(1862)の改革の時点では、三根山は旗本領であったため名前はありません。ところで、長岡藩牧野家や村上藩内藤家の名前もありません。譜代大名であった長岡藩や村上藩がないのは不思議な感じがします。理由は、文久2~4年の期間、長岡藩主牧野忠恭ただゆきは京都所司代や老中、村上藩主内藤信親のぶちかは老中の職にあったため、参勤交代をしていないからです。老中・若年寄など幕府の要職を務める人物は、在任期間は江戸に定住しており参勤交代がなかったのです。


 それでは、なぜ、このような資料が作成され、地方にも流通したのでしょうか。それは、参勤交代の時期が一年おきから三年ごとに変更になったことで、どの大名がどの時期に参勤交代するかという情報が、大名の参勤経路の本陣(大名や旗本、幕府の役人が使用した宿舎)のある宿場や、助郷すけごう(人足や馬の提供)の対象になった村にとっても、負担の増減に関わる重要な情報だったからではないかと考えられます。





【文久の幕政改革による参勤交代(請求記号F18-1127-13-1)】