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[第42話]梵鐘を鉄砲に鋳直す ~幕末にもあった金属供出令~

 

 太平洋戦争中、砲弾・兵器生産のための銅・鉄資源の不足を補うため、政府は一般市民の日用品とともに寺院には梵鐘を供出させました。梵鐘は、鋳直いなおして材料として使うことができるからです。この時、全国の梵鐘のうちおよそ80~90パーセントが供出されたといわれています。


 じつは、昭和以前にも全国の寺院が梵鐘の供出を命じられた時期がありました。


 嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に黒船がやってきました。黒船来航により日本は、それまで200年以上続いた泰平の世がひっくり返され、西洋列強の脅威にさらされた瞬間でもありました。そして、幕府の開国決定は、今のままでは攘夷(西洋列強の排斥)は不可能であり、「武備の充実」こそが緊急の課題であるということを意味しました。


 幕府は、大型船の建造を解禁し、西洋艦をオランダに注文します。さらに西洋砲術を採用し、長崎には海軍伝習所を設置して、西洋先進技術・文化の吸収に努めだしました。同時に、島国である日本にとって、海岸防備には大量の銃砲が必要不可欠でした。しかし、そのために必要な銅・鉄が足りません。


 安政2年(1855)3月、幕府は、銃砲への改鋳をもくろみ、全国の寺院に梵鐘の提供を命じます。同時に銅・鉄製仏像の新造を禁止しました。


 当館所蔵の「林泉寺梵鐘廻分留」は、越後にもその命令が届いていたことを教えてくれます。そこには、「海岸防御のため、こたび諸寺院の梵鐘、本寺の外古来の名器及び当節時の鐘に用い候分は除き、その余り大砲小銃に鋳換えるべき」と命じられたことが記されています。さらに、幕府は同年10月にも同様の命令を繰り返し発しており、あわせて寺の梵鐘調査も実施したようです。


 残念ながら、この史料からは林泉寺(旧頸城村くびきむら、現在廃寺)の梵鐘について、どのように調査がなされたのか、その後梵鐘はどうなったのかはわかりません。またこのような供出令を人々がどのように受け止めていたのかについて記した史料もありません。しかし、泰平から激動の時代への変化を、このような出来事から受け止めていた人々がいたのかもしれません。


 
【林泉寺梵鐘廻文留(請求記号E9806-1233)】