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[第39話]文明開化の裏側で ~ちょんまげ哀愁譚~

 

 明治維新後、欧米諸国の生活様式を導入する文明開化は服装の変化に始まり、やがて髪型にも及びました。明治4年(1871)に出された、まげを切ってもよいという太政官布告は、新潟県令の楠本正隆くすもとまさたかによって、強制的に進められ、明治8、9年には「他県の人は『越後散切』と言っている」と新聞に報道されるほどになり、新潟県下には一人も髪を結っている者はいないといわれるほどになっていたようです(「越後佐渡ヒストリア」第21話、第32話参照)。


 しかし、楠本県令が明治8年(1875)、東京に転出すると、再び髪を結う者が多くなりました。当時の新聞を覗いてみると、連日のように散髪に関する投書があり、髪型の自由を説く者もいれば、「断髪は開化なり、おそれ多くも聖天子また断髪なるぞや」と国を挙げて散髪による風俗の統一を主張する者もありました。


 新潟の古跡・風俗・人情・伝説等を記録しようと、昭和初期、古稀(70歳)以上の人々の思い出話を聞きとって編集された『新潟古老雑話』(昭和8年発行)にも、散髪に関する思い出話が載せられています。


 そこには、「当時まげのある人はシャンとして見よく、散髪の人々はヘナチョコ頭に見えてすこぶる不体裁に感じたから、断髪といえば一家眷属けんぞく泣いて惜しがったものである。」とあり、急激な時代の変化にとまどう当時の人々の切実な思いを感じさせます。やがて、「髪結所の床屋も漸次ぜんじなくなって・・・私一人で結ふことになり、家人からそんなになるまで切るのが惜しいのかと、笑われたものである。しかし明治30年(1897)、52歳の時あまり周囲がやかましいので散髪したが、髪を結ひ上げたときの清々した気持ちは今も忘れられぬ。」と書かれています。明治になり、急速に進められた文明開化ではありましたが、ちょんまげが新潟から姿を消すまで、約30年かかったようです。


 最後に、「新潟で私が最後の断髪者であろうと思ふ。」という言葉で締めくくられている思い出話からは、時代の流れであるということはわかっているものの、長年の風習を変えていかざるをえなかった、当時の人々の抱える、何とも言い表せない寂しさを感じさせます。


 
【『新潟古老雑話』(請求記号E9111‐62)】