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[第32話]西蒲原で最も早くマゲを切った男。一眼科医の日記から

 

 明治維新後の文明開化は、人々に大きな影響を与えました。明治4年(1871)8月9日に布告された散髪令は、新政府が早い段階で出したものです。散髪令は、他の布告と違い強制的ではなかったので、多くの人はマゲを切りませんでした。そんな中で、竹山亨は、宿泊診療の出張先で、同年10月22日、刮髪かつはつ(髪の毛を削り取ること)をしました。日記には、「結七十五番」とだけ記録していました。竹山亨は、3日から5日の間隔で髪結をする度に日記に付けて、その順番の番号も記録していました。1年間に100回前後の髪結となりました。



明治4年10月22日付「竹山日記」
【請求記号CKBクタ】

明治5年2月5日付「竹山日記」
【請求記号CKBクタ】

 髪の毛が伸びたころ、刮髪から101日後、明治5年2月5日、家人に頼んで頭髪刈をします。日記に「(髪切の記号)夕方断髪、昨辛未年十月二十二日、小千谷大川氏ニテ刮髪、後今五日ニテ百零壱日目」と記録します。以後、明治11年(1878)2月14日を最後に、同年3月5日に死去するまでに36回の髪刈をします。亨は髪刈を表わす新しい記号を考案して日記に付けます。髪切は、2か月に1回の割合です。まだ、理容所はありませんし、バリカンも髪切り専用のハサミもない時代です。家人や使用人から和バサミで少しずつ刈ってもらっていました。彼は、相当な時間を要して髪を切っていました。そんな不便を承知の上で、竹山亨は、進んで新政府の方針を受け入れました。


 竹山亨は、若い時、京都に上り、若い勤王の志士たちと友人になっていました。そんなことから、彼は、新政府の方針を率先して受け入れて実行したのではないでしょうか。


 彼は、統計を大切にする人で、色々な名目の数値を日記に付けました。「竹山日記」の中から、髪結頭髪刈の記号と番号を探して、表を作成すると、興味深いデータが出てくると思います。



竹山亨(『香山竹山先生追憶之栞』【請求記号E9112-517】)