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[第25話]鎧潟・貝喰谷地など蒲原の地に新田開発を熱望した第3のグループ

 

 鎧潟よろいがた紫雲寺潟しうんじがたなど蒲原かんばら平野の新田開発の願人には、関東地方の裕福な商人が多くいます。水害に苦しむ地元の蒲原平野の村々も、信濃川分水開削や鎧潟など低湿地の開発に積極的でした。
 そんな中で、あまり知られていませんが、魚沼うおぬま頸城くびきの中山間地の人々もいました。近世初期から少しずつ蒲原へ新田を求めて移り住んでいました。近世後期には、仲間を作り、共同で蒲原平野に広い耕地を求めて開発に乗り出すようになります。富裕な商人たちとは違い、自ら耕作者となりたい人々です。第3のグループと言えるでしょう。
 中でも、旧柿崎かきざき町・旧吉川よしかわ町など中頸城郡の中山間地域の富裕な農民たちの記録が伝存します。柿崎村・馬正面ばしょうめん村・下小野しもおの村(以上旧柿崎町)・いずみ村・土尻どじり村・法音寺ほうおんじ村・竹直たけなお村(以上旧吉川町)・黒井村(上越市)などの農民たちです。中山間地域は、もともと耕地が少ない上、用水確保に悩み、広い耕地を望んでいました。寛政年間(1789~1800)に入ると、幕府の潟沼しゃしょう開発奨励政策もあり、鎧潟・貝喰谷地かいばみやちなど蒲原郡に広がる潟や沼の開発に乗り出そうと計画を立てました。開発が進展するように、信濃川の改修や分水路開削の計画に関係することもありました。
 寛政2年(1790)、信州の人も仲間に入れ、鎧潟辺の新開発を計画し、資金・工事の仲間内の規則を作り始めましたが、失敗します。翌寛政3年、貝喰谷地開発の許可を得て、改めて資金・工事の規則を作り始めます。彼らは貝喰谷地に長期間滞在して工事にかかりました。柿崎村の嘉右衛門は、新年の宗門人別改しゅうもんにんべつあらためにも帰村せず、蒲原郡内の同派の寺院に代印してもらい、証明を受けます。また、中心人物の1人、土尻村庄屋長谷川源吉は、現地で病没し、長谷川家は開発の仲間から抜けます。ようやく、開発が終了すると、彼らのほとんどは、貝喰新田へ移住して農業に従事します。現在も彼らの子孫は続いています。


 長谷川家は開発従事を断念しますが、長谷川家文書約8000点の中に、鎧潟・貝喰谷地の開発に関する文書・絵図が6点だけ伝わります。より広い耕地を熱望した中山間地の人々の様子をぜひ見てください。



【貝喰新田谷地小絵図】(請求記号F23-7260)


【貝喰谷地の開発に関する古文書】(請求記号F23-276・277)