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[第15話]大名行列を超える溶姫様のお国入り

 
 溶姫(やすひめ、ようひめ)は江戸幕府11代将軍徳川家斉の娘であり、加賀藩主前田斉泰に嫁ぎました。加賀藩は、溶姫を迎えるために前年から江戸藩邸の一部を改修しましたが、その際に建てられた表御門は現在東京大学の「赤門」として知られています。


【東京大学の赤門】

 文久3年(1863)4月、幕末の混乱の中で、溶姫は金沢へお国入りすることになります。江戸育ちの溶姫にとって、生まれて初めての大旅行です。そして、加賀藩主の夫人であると同時に将軍の娘でもあるということで、幕府の役人も多数同行したようです。その結果、お供は千人以上ともいわれ、溶姫をはじめとした同行者たちの荷物も相当な量となったようで、その規模は加賀藩主の参勤交代における大名行列を上まわるものであったとも言われています(ルートは中山道、北国街道で長野から越後に入り、高田、直江津、糸魚川などを経て金沢へ向かいました。)。
 それほどの大行列ともなれば、当然道中の村々の負担も相当なものであったと考えられます。当館寄託の笠原家文書には、その時の先触の写しや宿場における継立人馬の記録などが数多く残されており、この行列の規模を物語っています。また、街道から離れた村々に対しても負担があったことが中林村(現糸魚川市)の文書から確認できます。


【笠原家文書】(請求記号F18-1135)

【西頸城郡中林村石塚家文書】(請求記号E0504-222)
※惣高と役高に分け、銭納での負担でした。

 道中の村々にとっては大騒ぎであった溶姫のお国入りですが、翌年にはすぐに江戸へ戻り、慶応4年(1868)には倒幕の気運の中で金沢へひそかに逃れ、まもなく死去します。溶姫は、篤姫や和宮と同じく時代に翻弄された女性の一人であったと言えます。