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『三つの「けん」』

 
第30回(平成22年度)
全国高校生読書体験記コンクール入選
内藤しおりさん(新潟県立高田北城高等学校)

今年の春のことだった。私は、母の運転する車に乗っていた。母の車が、ある地域に入ったところで、母が言った。
「なんともないように見えるけど、ここが被差別部落なんだよ。」

新潟県立高田北城高等学校

新潟県立高田北城高等学校


母は真剣な声で、唐突に私に教えた。私はこの言葉に大きく衝撃を受けた。そしてすぐこう言い返した。「ちょっと待って。それは言わなければわからないじゃん。言わなければよかったのに。」


この後、私と母は、しばらく言い争った。母は、私の主張は「寝た子を起こすな」主義といって正しくない考えだと述べた。しかし私はわからなかった。寝た子は、そっとしておくのが普通ではないのだろうか、とその時は考えていた。


私だって部落差別について知らないわけではなかった。高校では、度々部落問題についての講演や授業があったし、授業を通し、出生地だけで差別するという事実に疑問も抱いていた。その反面、同和教育の講演会が多すぎると不満に思っていた部分もあった。また、差別問題についての展示で学んだ、部落差別を学んだ学生がそのときに覚えた差別用語を使うという事件を知り、やはり寝た子を起こすべきでないと考えていた。


母とは、その時以来議論せずに夏休みになった。ある日、図書館へ行き、あてもなくぶらぶらとしていた。たまたま、社会問題の本が置いてある場所に行き、本を見てあの討論を思い出した。なぜ「寝た子を起こす」必要があるのか、その思いで答えの記された本を探した。その時に「人権をくらしのなかに」という本に出会った。その本の部落差別について書かれている部分の中に、筆者からある少年への手紙の内容があり、私と同じ意見を持つ少年に筆者が答えている場面があった。まるで筆者が私に訴えているように感じた。「あなたは部落差別について無関心であるが、今大切なことは、部落の歴史と現状、その中で生活してきた人々の生活や思いを深く知ることである。無関心は、ひとたび問題があなた自身に関わることになった時、あなたをぼろぼろにする。」その言葉に深く納得し、この本を読みすすめた。すると、本ではほかにも色々な差別についての著者の考えが書かれていて、その中の一つにこんな意見があった。「差別事件が起こってしまってから差別をなくす努力をするよりも、起こる前に差別の芽をつむ努力に要するエネルギーの方がはるかに少なくてすむ。」これこそ、私の考えを覆した意見だった。


この本を読んで、「寝た子を起こすな」には、根本的に間違っている部分があるのではないか、と考えるようになった。ここでは、寝た子=部落問題であるが、そもそも部落差別は眠ってはいないのではないか。著者の言う私たち「みている立場」つまり傍観者や、「みすごす立場」すなわち部落問題に気付けない人々が、勝手に部落差別は眠ったのだと解釈し、あるいは見なし、ただ単に放っておいただけではないのか。そうだとすれば私はひどい考えを持っていたな、と後悔した。これからは学校の授業にしろ、何にしろ、深く知ること、真剣に学ぶことを心がけたいと思った。


著者が本の中で、ある小学校の教師の言葉を借りていた。それは「たんけん」「はっけん」「ほっとけん」という、三つの素晴らしい「けん」だった。著者の言うとおり、差別がないかと探検の姿勢を持ち、差別の性質を発見し、差別撤廃への実践に結びつける、放っておかないことが、何より大切だと思った。


一方、なぜ出生地だけで差別するのかという疑問、怒りは変化しなかった。むしろ、さらにその思いを強くしてくれる詩が本の中にあった。一つの詩は、「人の値打ち」という題名の詩だった。被差別部落に生まれた、江口いとさんの詩だ。そこには、詩の作者の、人の値打ちは着物でも、学歴でも、生まれた所でも決まらない、この事実に気付いてほしい、という思いが詰まっていた。もう一つは、「私の部落の子供たちを憶う」という詩だった。同じ作者によるものだ。前者の詩より、もっとストレートな思いがつづられていた。詩を読んで私は、以前はどこか少し離れた所で感じていた被差別部落の方々の気持ちを、自分の事のように感じ、悲しみ、怒った。本当に、「部落」というレッテルを貼ったのはいったい誰なのだろうか。この詩もこの気持ちも、絶対に、忘れない。


この本は読み終わったが、ただ本を読んだ、だけで終わらずに、読んだことを生かしていきたい。おそらく、高校での同和教育はまだあるだろうから、そこで学んだことを生かして、身近な差別を「たんけん」し、見つけたら詳細を調べ、更なる事実を「はっけん」し、「ほっとけん」ものにしていきたい。そして、この三つの「けん」を、常に頭に置いておこうと思う。

 

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